|
970年(天禄元年)頃 |
父の藤原為時と母の藤原為信女が結婚。 |
公卿と受領~上級貴族と中・下級貴族~ |
971年(天禄2年)頃 |
姉が誕生。名は不明。 |
973年(天延元年) |
紫式部誕生。 紫式部の誕生年については、970年(天禄元年)など諸説ある。 本名は「香子」という説がある。 |
雲林院 |
真珠庵 |
紫式部は紫野で生まれたと言われ、「紫」は紫野に由来するとも言われる。 雲林院は『源氏物語』に登場する寺で、かつて雲林院の敷地だった大徳寺の塔頭真珠庵には「紫式部産湯の井」がある。 |
974年(天延2年) |
弟の惟規が誕生。 母の為信女は惟規を出産した後、間もなく亡くなったものと考えられている。 その後生まれる妹(名は不明)、弟の惟通、弟定暹は異母妹弟。 惟規は、幼い頃から為時に漢詩を教わるが、そばで聞き習っていた紫式部の方が早く理解してしまうため、為時は紫式部が男でない事を嘆いていたのだとか。 |
紫式部の兄弟姉妹 |
977年(貞元2年) |
父の為時が東宮・師貞親王(のちの花山天皇)の御読書始において副侍読を務める。 |
花山天皇と藤原為時~師貞親王の教育係と藤原兼家・藤原道兼~ |
984年(永観2年) |
円融天皇が花山天皇に譲位。 東宮(皇太子)には藤原兼家の娘・藤原詮子が生んだ懐仁親王(のちの一条天皇)が立てられた。 花山天皇の即位によって為時が式部丞蔵人となる。 紫式部の「式部」は、父の為時が式部丞だったことによるというのが通説。 |
985年(寛和元年) |
恵心僧都源信が『往生要集』を著す。 源信は比叡山の横川で修行した僧で、『源氏物語』の「宇治十帖」に登場する横川の僧都のモデルとされる。 |
浮御堂 (大津市) |
恵心堂 (比叡山) |
浮御堂(満月寺)は、恵心僧都源信が衆生済度と琵琶湖の湖上安全を祈願して創建。 恵心堂は、藤原兼家が建てた堂で、恵心僧都源信が修行した地。 |
986年(寛和2年) |
寵愛していた女御の藤原忯子を亡くした花山天皇が出家(寛和の変)。 花山天皇が仏門に入ったことで為時の出世が途絶えることになる。 一条天皇が即位。 |
元慶寺は、花山天皇が出家した寺。 そのため花山寺とも呼ばれ、花山法皇が西国観音霊場三十三ヶ所の中興の祖とされることから番外札所となっている。 |
花山天皇と藤原為時~師貞親王の教育係と藤原兼家・藤原道兼~ |
藤原忯子の懐妊と死~花山天皇は?父藤原為光は?~ |
987年(永延元年) |
藤原道長が源倫子と結婚。 この時、紫式部は倫子に仕えた可能性がある。 また、時期は不明だが具平親王(六条宮)や冷泉天皇の皇后宮・昌子内親王に仕えていたという説もある。 「めぐりあひて・・・」の歌の「幼い頃からの友」は昌子内親王に仕えたころの友ではないかという説も。 |
紫式部は「源倫子にも仕えていた」という説 紫式部の歌~めぐりあひて:百人一首・新古今和歌集~ |
990年(正暦元年) |
藤原定子が一条天皇に入内。 関白藤原兼家が薨去。 のちに紫式部の夫となる藤原宣孝が筑前守に。 |
石清水八幡宮に伝わる「大宰府符」は、筑前守となり大宰少弐も兼ねた宣孝の自筆署名があるもの。 |
991年(正暦2年) |
2月12日、円融院が崩御。 |
火葬された遺骨は円融寺(現龍安寺)に葬られた。 |
円融院の子日の御遊と円融院葬送の歌~藤原朝光・藤原行成・藤原実方~ |
993年(正暦4年)頃 |
清少納言が藤原定子に仕える。 |
994年(正暦5年) |
疫病の流行により、船岡山で「紫野御霊会」 が営まれる。 |
今宮神社は、船岡山で「紫野御霊会」 を営んだことに始まる社。 4月に行われる「やすらい祭」は紫野御霊会を起源とし、疫病の根源を疫社に封じ込める祭。 |
平安京の羅城門と芥川龍之介の羅生門~死体の捨て場…~ |
995年(長徳元年) |
藤原実方が陸奥守に左遷?され、藤原行成が蔵人頭?・・・ |
陸奥守に左遷の藤原実方と蔵人頭に昇進の藤原行成の逸話 |
長徳4年、実方は任国で死去。 亡くなった地とされる佐具叡神社の跡地には藤原実方の墓が建てられている。 |
995年(長徳元年) |
関白の藤原道隆、藤原道兼が相次いで薨去。 藤原伊周との政争に勝利した藤原道長が氏の長者となる。 |
酒好きだった藤原道隆~酒の飲みすぎで亡くなった関白~ 関白にならなかった御堂関白・藤原道長~内覧と摂政と関白~ |
995年(長徳元年) |
北宋の商人・朱仁聡らが越前国敦賀津に滞在。 |
気比の松原 (敦賀市) |
気比神宮 (敦賀市) |
朱仁聡らが滞在していたのは、気比の松原付近、あるいは、気比神宮付近にあったとされる「松原客館」ともいわれる。 |
995年(長徳元年) |
秋に方違えで紫式部邸を訪れて泊まっていった男が宣孝の可能性。 『紫式部集』に贈答歌が収められている。 この頃から翌年にかけて姉が亡くなり、平維将の娘(筑紫の君)を姉君と呼んで慕うようになる。 |
紫式部の歌~方違えで泊まっていった男は藤原宣孝?~ |
方違え~方位神のいる方角を避ける陰陽道の信仰~ |
996年(長徳2年) |
藤原伊周が長徳の変を起こして失脚。 伊周の母高階貴子が病死、妹で一条天皇の子を懐妊していた藤原定子が落飾。 |
高階貴子の歌~明石にいる息子・藤原伊周を思って詠んだ歌~ 藤原伊周の歌~播磨国左遷と栄花物語「浦々の別」~ |
996年(長徳2年) |
越前守となった為時に同行して越前国へ下向。 為時が越前守に叙任されたのは、敦賀に滞在していた朱仁聡らとの交渉に当たらせるためともいわれている。 |
一条天皇に漢詩を奏上して越前守となった藤原為時 宋人と詩を唱和した紫式部の父・藤原為時 |
紫式部公園は、紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された公園。 平安朝式庭園が再現され、十二単衣をまとった金色の紫式部像が置かれている。 紫式部像の周りには3つの紫式部歌碑も。 |
997年(長徳3年) |
越前国の紫式部に藤原宣孝が求婚。 |
紫式部公園には、宣孝に求婚されたときに詠んだ歌の歌碑が建てられている。 |
紫式部の歌~藤原宣孝の求婚を拒否する歌~ |
997年(長徳3年) |
賀茂祭の日、藤原公任と藤原斉信を乗せた牛車が襲われる。 |
花山法皇の濫行事件~賀茂祭の日に検非違使出動!~ |
997年(長徳3年)秋 または 998年(長徳4年)春 |
越前国に為時を残して帰京。 |
998年(長徳4年)頃 |
藤原宣孝と結婚。 紫式部は26歳(出生を973年(天延元年)とした場合)。 宣孝は952年(天暦6年)頃の出生といわれるので47歳くらいで、3人の妻があり5人の子がいた。 |
蘆山寺は、紫式部の邸跡にある寺院。 紫式部と宣孝の結婚は、宣孝が紫式部邸に通う「通い婚」。 |
通い婚・妻問婚と藤原道長と紫式部 |
999年(長保元年) |
娘の賢子が誕生。 藤原道長の長女・藤原彰子が一条天皇の女御として入内し、翌年、中宮となる。 |
1000年(長保2年)頃 |
宣孝が通って来なくなり、寂しい思いをしていたらしい。 『紫式部集』には宣孝の浮気の歌が多く収められている。 |
1000年(長保2年) |
12月16日、一条天皇の皇后宮藤原定子が崩御。 前年に生まれた第一皇子の敦康親王は、中宮の藤原彰子が養母となって育てられることに。 |
定子の遺体は六波羅蜜寺に安置された後、27日、鳥戸野(鳥辺野)へ葬送された。 本人の希望により土葬とされたのだという。 |
藤原定子の歌~死を悟った一条天皇皇后宮の遺詠の歌・辞世の歌~ 春はあけぼの~藤原定子と清少納言と枕草子~ |
1001年(長保3年) |
為時が越前国から帰京。 4月25日、宣孝が死去。 閏12月22日、藤原道長の姉で一条天皇の生母・藤原詮子が崩御。 |
藤原詮子と藤原宣孝の死を悲しむ歌 藤原詮子の晩年 ~平惟仲邸が御所・藤原行成邸で崩御~ |
宣孝の追悼歌は、陸奥国の名所絵を見て詠んだ歌 |
紫式部の歌~見し人の:夫・藤原宣孝の死を悼む歌~ |
1001年(長保3年)から翌年 |
宣孝の亡き後、紫式部に思いを寄せていた男がいたらしい。 宣孝の子・隆光かも。 |
紫式部の歌~時々、手紙を返していた男との歌~ 紫式部の歌~家の門を叩いた男を無視した時の歌~ |
1004年(寛弘元年) |
『石山寺縁起絵巻』によると、紫式部は石山寺に参籠して『源氏物語』を書き始めたのだという。 ただ、『石山寺縁起絵巻』は鎌倉時代末のもので、紫式部が石山寺に参籠して『源氏物語』を書いたという記録は残されていない。 寛弘元年以前に書き始められたという説も。 |
石山寺 (大津市) |
源氏の間 (石山寺) |
石山寺に参籠中、中秋の名月が琵琶湖に映る美しい景色を見て『源氏物語』を書き始めたのだと伝えられる紫式部。 光源氏のモデルの一人・在原行平の須磨での日々を重ねあわせながら、「須磨」「明石」の両巻から書いたのだという。 源氏の間は、石山寺の本堂の相の間にある部屋。 |
1005年(寛弘2年) |
9月26日、安倍晴明が86歳で没。 |
晴明嵯峨墓所 |
晴明神社 |
晴明は嵯峨に葬られたと伝えられ、2年後、一条天皇は晴明の屋敷跡に晴明神社を創建。 |
1005年(寛弘2年) |
藤原道長の要請で一条天皇の中宮・藤原彰子に仕える。 『紫式部日記』によると初めて宮中に参上したのは12月29日だったらしい。 出仕した年については、寛弘3年という説もある。 |
紫式部の越前下向を記念して整備された紫式部公園には、彰子に仕えることになったときに詠んだ歌の歌碑が建てられている。 |
源陟子(宮の宣旨) 源簾子(大納言の君) 藤原豊子(宰相の君) 小少将の君(源簾子の妹) 橘良芸子(宮の内侍) 橘隆子(左衛門の内侍) 馬中将の君(藤原相尹の娘) |
東三条院址 (京都) |
一条院跡 (京都) |
1005年(寛弘2年)11月、平安宮の内裏が焼失してしまっているため、一条天皇は東三条院に遷った後、翌年、一条院に遷御している。 その後、内裏が再建されるが一条天皇は還御しなかったのだという。 紫式部が初出仕した場所は、寛弘2年ならば東三条院、寛弘3年ならば一条院ということになる。 |
1006年(寛弘3年) |
前年末に中宮・藤原彰子に仕え始めたが、ほどなくして自宅に帰って引き篭もる。 出仕した年を寛弘3年とすると寛弘4年の出来事となる。 内裏の女房・橘隆子(左衛門の内侍)に「学識を鼻にかけている」と陰口を叩かれていたという紫式部。 再出仕後は無学を装ったらしい。 |
紫式部の歌~出仕後すぐに里下がりした時の歌~ 紫式部の歌~春の歌を献上するよう命じられて~ 紫式部の歌~出仕を促す宮の弁のおもととの贈答歌~ 紫式部の歌~先輩女房から陰口を言われて詠んだ歌~ 紫式部の歌~端午の節句に薬玉を贈ってくれた人との贈答歌~ |
1006年(寛弘3年) |
興福寺の別当定澄と藤原道長が対立。 |
興福寺は藤原氏の氏寺。 平安時代には春日大社の実権を手にし、大和国のほとんどの荘園を領して、事実上大和国を支配していた。 |
藤原道長 vs 興福寺~源頼親・蓮聖・定澄と道長~ |
1007年(寛弘4年) |
8月11日、藤原道長が自ら書写した経を金峯山(山上の蔵王堂)に埋納。 |
金峯山寺 |
金峯神社 |
吉野山の金峯神社に伝わる経筒は、金峯山から出土したもので国宝。 |
藤原道長の御嶽詣~彰子の男児出産を願っての金峯山参詣か?~ 国宝に指定された藤原道長直筆の経巻~吉野山:金峯神社・金峯山寺~ 金銅藤原道長経筒と道長の願い~御嶽詣~ |
1008年(寛弘5年) |
2月8日、花山法皇が院御所の花山院で崩御。 |
葬られた地は法音寺の北。 |
1008年(寛弘5年) |
中宮・藤原彰子が懐妊。 4月から5月にかけて、土御門殿(土御門邸)では安産祈願のための法華三十講が営まれる。 この頃から藤原道長の召人となったのかもしれない。 |
藤原彰子の懐妊と藤原道長の法華三十講と紫式部 |
紫式部の歌~妙なりや・・・5月5日の法華経第5巻~ 紫式部の歌~紫式部と大納言の君の篝火の歌~ 紫式部の歌~菖蒲の歌:小少将の君と紫式部の贈答歌~ |
渡殿の紫式部の局の戸をたたく藤原道長 |
1008年(寛弘5年) |
7月16日、中宮・藤原彰子が出産のため土御門殿(土御門邸)に里下がり。 安産祈願の五壇の御修法が営まれる。 『紫式部日記』が書き始められる。 |
土御門殿(土御門邸)は、藤原道長の邸宅。 紫式部は、寝殿と東の対の屋を結ぶ渡殿の東側の戸口近くに部屋を与えられていたらしい。 |
紫式部の歌~女郎花・・・道長との女郎花の歌の贈答~ |
彰子の里下がりと安産祈願の五壇の御修法 |
1008年(寛弘5年) |
8月26日、昼寝をしていた弁の宰相の君(藤原豊子)を見た紫式部は「まるで絵に描いた物語の姫君」のように感じたのだとか。 豊子は藤原道綱の娘で女房としての階級は「上臈」だった。 |
1008年(寛弘5年) |
9月9日、源倫子から「菊の着せ綿」を贈られる。 |
源倫子から「菊の着せ綿」を贈られて感激した紫式部は、お礼の歌を詠んでいる。 |
1008年(寛弘5年) |
9月11日、中宮・藤原彰子が一条天皇の第二皇子・敦成親王(のちの後一条天皇)を出産。 |
藤原障子の皇子出産と紫式部と源氏物語~『紫式部日記』~ |
藤原彰子の出産~敦成親王誕生:紫式部日記~ |
1008年(寛弘5年) |
9月15日に藤原道長が主催する御産養、9月17日に朝廷主催の御産養が行われる。 「産養」(うぶやしない)は、生後三日、五日、七日、九日目の夜に行われる祝宴。 9月19日には藤原頼通の主催でも行われている。 |
御産養の盛儀を覗き見て感激する夜居の僧 御産養の夜、中宮(彰子)の前に対座し静かに御簾をあげる紫式部 紫式部の歌~めづらしき・・・後一条天皇の御産養のときの歌~ |
敦成親王誕生5日目の御産養~紫式部日記~ |
1008年(寛弘5年) |
10月16日、一条天皇が土御門邸に行幸して敦成親王と対面。 藤原斉信と藤原実成が特別昇進。 |
新造の竜頭鷁首の舟を下見する道長 渡殿にある紫式部の局に立ち寄る斉信と実成 紫式部の歌~水鳥を…一条天皇の土御門行幸が近くに詠んだ歌~ |
一条天皇の土御門殿行幸、敦成親王と対面~紫式部日記~ |
1008年(寛弘5年) |
11月1日、敦成親王の「五十日の祝い」が行われる。 『紫式部日記』には・・・ 五十日の祝いで藤原公任が紫式部を「若紫」と呼んだ事が記されている(『源氏物語』が文献上で初めて登場)。 |
御五十日祝いに若宮を抱く中宮と祝膳を供する女房 御五十日の祝いの宵、若宮に餅を供する道長 道長から賀の歌を求められる紫式部 藤原公任と紫式部~源氏物語の初登場と古典の日:紫式部日記~ 紫式部像 |
敦成親王誕生の五十日の祝い~源氏物語初登場の日:紫式部日記~ |
1008年(寛弘5年) |
11月、中宮・藤原彰子は、内裏(一条院)への還御が近くづくと御草子作りを命じている。 紫式部が中心となって動き、道長から上質の紙や筆・墨などが提供されていることから、草子は『源氏物語』と推測されている。 |
御草子作り~藤原彰子のもとで清書された『源氏物語』:紫式部日記~ 紫式部の歌~源氏物語について交わした藤原道長との贈答歌~ |
1008年(寛弘5年) |
11月17日、内裏(一条院)に還御した中宮・藤原彰子は、一条天皇に『源氏物語』を献上。 一条天皇から漢学の学識を高くかわれた紫式部は、白居易の新楽府(漢詩)を彰子に講義したのだという。 |
中宮彰子に新楽府を進講する紫式部 |
1008年(寛弘5年) |
11月17日、中宮・藤原彰子が内裏(一条院)へ還御。 |
1008年(寛弘5年) |
11月23日、豊明節会。 右の宰相中将が五節の舞姫に日陰の鬘の下賜を願い出て、中宮・藤原彰子から与えられた。 |
紫式部の歌~弘徽殿女御に仕える右京に贈った歌~ 紫式部の歌~五節が過ぎた頃の藤原豊子との贈答歌~ |
1008年(寛弘5年) |
12月20日、敦成親王の「百日の儀」が行われる。 藤原伊周が敦成親王は第二皇子で、第一皇子は敦康親王であることを強調。 |
藤原伊周と敦成親王の百日の儀~敦康親王に賭けていた伊周~ |
1008年(寛弘5年) |
12月に里下がりし紫式部だったが、12月29日、一条院に戻る。 |
女房たちと語りながら歳末の夜を過ごす紫式部 |
1008年(寛弘5年)頃 |
和泉式部が藤原彰子の女房として出仕か? |
1009年(寛弘6年) |
1月3日、敦成親王の御戴餅の儀が行われる。 |
1009年(寛弘6年) |
正月、藤原道長・藤原彰子・敦成親王(のちの後一条天皇)を呪詛する事件が発覚。 首謀者は藤原伊周の叔母・高階光子(伊周の母高階貴子の妹)。 |
呪詛された藤原道長~首謀者は藤原伊周の叔母・高階光子~ 敦成親王・藤原彰子・藤原道長の呪詛事件 |
1009年(寛弘6年) |
11月25日、中宮・藤原彰子が土御門邸で一条天皇の第三皇子・敦良親王(のちの後朱雀天皇)を出産。 |
1010年(寛弘7年) |
1月15日、敦良親王の「五十日の祝い」。 この年、「宇治十帖」を書き始めたといわれる。 |
1010年(寛弘7年) |
1月28日、藤原伊周が死去。 |
権力を夢みた藤原伊周~道長の暗殺計画・呪詛事件そして最期~ 藤原伊周の遺言~娘と息子は伊周の思いに反して~ |
1011年(寛弘8年) |
父の藤原為時が越後守となって越後国へ下向。 同行した弟の藤原惟規が越後国で死去。 |
藤原惟規辞世の歌~越後で亡くなった紫式部の弟~ |
1011年(寛弘8年) |
6月13日、一条天皇が三条天皇に譲位。 6月22日、一条天皇が崩御。 三条天皇の皇太子となったのは、藤原定子が産んだ第一皇子の敦康親王ではなく、藤原彰子が産んだ第二皇子の敦成親王。 彰子は敦康親王を無視して敦成親王を皇太子にしようとする藤原道長に対して激怒していたのだと伝えられている。 |
一条天皇は、皇后宮だった藤原定子と同じ土葬を望んでいたが、藤原道長は火葬してしまったのだという。 火葬された遺骨は、東山の円成寺に安置され、1020年(寛仁4年)6月16日に円融寺北陵に改装された。 |
藤原彰子の歌~撫子を手に取る幼い我が子を見て詠んだ歌~ 東宮になれなかった敦康親王~藤原行成が一条天皇に進言したこと~ 東宮になれなかった敦康親王~伊勢物語と外戚・高階氏~ 藤原彰子は敦康親王が東宮になることを望んでいた! 一条天皇の遺詠歌と藤原定子の遺詠歌、そして源氏物語 |
1012年(寛弘9年) |
正月、藤原道長の三男顕信が行願寺で剃髪し、比叡山の無動寺で出家。 |
藤原顕信~突然出家した藤原道長の三男~ 比叡山で投石され、重病になった藤原道長~顕信の受戒と山王権現の祟り~ |
顕信が剃髪した行願寺(革堂)は、1004年(寛弘元年)に一条天皇の勅願寺として創建された寺院。 |
1012年(長和元年) |
2月14日、藤原彰子が皇太后となる。 紫式部は引き続き彰子に仕えている。 |
一条天皇が崩御した後、彰子は枇杷殿に移り、1015年(長和4年)の内裏焼失で三条天皇が遷御するまで使用している。 |
紫式部の歌~ありし世は・・・栄花物語~ |
1012年(寛弘9年) |
藤原道長が次女・妍子を中宮とすると、三条天皇は寵愛する藤原娍子を皇后宮とする。 |
皇后宮娍子の立后と中宮妍子の参内~三条天皇と藤原道長の対立~ |
1013年(長和2年) |
このころ、皇太后藤原彰子は、頻繁に藤原実資の訪問を受けている。 実資は、藤原道長に批判的な立場をとっていた公卿で、道長も一目置く人物だった。 紫式部は、実資と彰子の取次役をしていたのだという。 |
藤原彰子と藤原実資を取次役を務めた紫式部 |
1014年(長和3年) |
正月、皇太后藤原彰子の病気快復を願って清水寺を参る。 偶然にも同じ日に参っていた伊勢大輔と出会い和歌を贈答している。 この頃、紫式部は彰子付の女房を退いたとされ、藤原実資を彰子に取り次いだことで藤原道長から宮中を追放されていたという説もある。 |
清水寺は『源氏物語』をはじめ、清少納言の『枕草子』・菅原孝標女の『更級日記』・赤染衛門の『赤染衛門集』にも登場する寺。 |
紫式部の歌~清水寺で出会った伊勢大輔との贈答歌(伊勢大輔集)~ |
1014年(長和3年) |
紫式部死去。 973年(天延元年)の誕生とすると42歳。 この年、父の藤原為時が越後守を辞して帰京している。 帰京の理由は、紫式部が亡くなったためとする説がある。 ただ、紫式部の没年については、明確な史料がなく、様々な説がある。 たれか世に ながらへて見む 書きとめし 跡は消えせぬ 形見なれども この歌は、紫式部の親友・小少将の君を偲ぶものだが、辞世ともいわれる。 |
紫式部の歌~越後国に赴任している父為時を案じた歌~ 紫式部の歌~山桜の歌:人生は桜の盛りほどにはかない~ 紫式部の歌~小少将の君の生前の手紙を見つけて~ 紫式部の没年と源氏物語~准太上天皇となった光源氏と敦明親王~ |
紫式部は晩年を雲林院百毫院で過ごしたのだという。 雲林院の近くには紫式部の墓がある。 隣には小野篁の墓もあるが・・・ 『源氏物語』という架空の恋愛物語を書いた紫式部は、仏罰により地獄に堕ちたという噂がたった。 そのため、閻魔大王と交流していたという小野篁の墓を隣に移し、紫式部を地獄から救おうとしたのだとか。 |
源氏供養~地獄に堕ちた紫式部の供養~ |
1015年(長和4年) |
三条天皇が藤原頼通に第二皇女の禔子内親王の降嫁を持ちかける。 |
藤原頼通と禔子内親王の縁談~隆姫を悲しませたくない頼通は~ |
1016年(長和5年) |
三条天皇が後一条天皇に譲位。 藤原道長が摂政に。 |
三条天皇の歌~夜半の月・百人一首収録歌~ 藤原兼綱と藤原資平~三条天皇の蔵人頭となった二人~ 摂政・関白と摂関政治(藤原氏の政治) |
1016年(長和5年) |
娘の藤原賢子(大弐三位)が皇太后藤原彰子のもとに出仕。 |
1016年(長和5年) |
4月29日、父の藤原為時が三井寺(園城寺)で出家。 |
為時の出家の理由は、長男惟規・次女紫式部を相次いで亡くしたため、三井寺の阿闍梨だった三男の定暹のもとで暮らしたかったという説が・・・ |
1016年(長和5年) |
12月、藤原道長が左大臣を辞す。 |
1017年(長和6年) |
3月、藤原道長が摂政を長男の頼通に譲る。 空席となっていた左大臣には藤原顕光が就任。 |
1017年(寛仁元年) |
5月9日、三条上皇が崩御。 8月9日、三条天皇の第一皇子・敦明親王が東宮を辞退。 これにより、一条天皇の第三皇子・敦良親王が東宮に。 |
紫式部の没年と源氏物語~准太上天皇となった光源氏と敦明親王~ |
三条天皇は、一条天皇と同じく鹿苑寺の北の巌陰で火葬され、北山陵に葬られたのだという。 |
1017年(寛仁元年) |
12月、藤原道長が後一条天皇元服の加冠役を奉仕するため太政大臣に。 翌年2月には辞任している。 |
1018年(寛仁2年) |
藤原道長は、三后のすべてを我が娘で占める偉業を達成。 |
望月の歌・この世をば・・・~藤原道長の栄華と紫式部の歌 |
1018年(寛仁2年) |
12月17日、敦康親王が薨去(20歳)。 |
1019年(寛仁3年) |
3月、藤原道長が出家(9月にも東大寺で受戒)。 |
藤原道長の出家と最期 藤原道長の歌~出家した道長と彰子と和泉式部の歌~ |
1019年(寛仁3年) |
3月から4月にかけて、中国大陸の女真族を中心とした船団が九州に侵攻(刀伊の入寇)。 藤原隆家・平為賢らが撃退。 |
刀伊の入寇~日本国を守った藤原隆家~ 刀伊の入寇の恩賞と武士の台頭 |
1019年(寛仁3年) |
7月、藤原道長が無量寿院の建立を開始。 |
法成寺は、道長が土御門殿の東側に建てた無量寿院を始まりとする。 |
1020年(寛仁4年) |
異母弟の惟通が在任地の常陸国で死去。 |
1025年(万寿2年) |
娘の藤原賢子(大弐三位)が親仁親王(のちの後冷泉天皇)の乳母となる。 |
1025年(万寿2年) |
藤原道長・源倫子・藤原頼通・藤原教通が関寺の霊牛と結縁。 |
長安寺の牛塔は、霊牛が葬られた地に藤原頼通が建てたもの。 |
1025年(万寿2年) |
藤原道長の三女寛子と六女嬉子が立て続けに死去。 |
藤原顕光と藤原延子の怨霊に祟られた藤原道長の娘たち |
1027年(万寿4年) |
9月14、藤原道長の次女で三条上皇の中宮だった藤原妍子が崩御。 妍子の四十九日法要後、道長が病床に付く。 |
藤原顕光と藤原延子の怨霊に祟られた藤原道長の娘たち |
1027年(万寿4年) |
12月4日、藤原道長薨去。 |
藤原道長の出家と最期 藤原顕光と藤原延子の怨霊に祟られた藤原道長の娘たち |
1029年(長元2年) |
父の藤原為時が死去。 |
1030年(長元3年) |
藤原彰子発願の東北院が完成。 |
東北院は、藤原道長の法成寺東北の一郭に建立された常行三昧堂を始まりとする寺院。 浄土寺真如町に移転するまでは、本禅寺・清浄華院・蘆山寺辺りにあったものと考えられている。 |
1074年(承保元年) |
10月3日、藤原彰子崩御。 |
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