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赤染衛門(あかぞめえもん)は、平安時代中期の歌人。 父は赤染時用。 ただ、母が平兼盛の子を宿したまま時用と再婚したともいわれる。 生没年不詳。 夫は文章博士・大江匡衡。 『栄華物語』の作者ではないかともいわれる。 |
※ | 鎌倉幕府の政所別当として源頼朝に仕えた大江広元は、赤染衛門と大江匡衡の子孫。 |
匡衡→挙周→成衡→ 匡房→維順→維光→広元 |
赤染衛門は源雅信邸に出仕し、藤原道長の正妻・源倫子や倫子と道長の娘藤原彰子に仕えた。 |
土御門殿は、源雅信が建設した邸宅。 雅信の死後、道長が継承した。 一条天皇の中宮となった彰子は、土御門殿で後一条天皇と後朱雀天皇を出産している。 |
赤染衛門と大江匡衡は「おしどり夫婦」と言われ、赤染衛門は夫の出世のために奔走していたのだという。 『紫式部日記』によると、藤原彰子や藤原道長に「匡衡衛門」と呼ばれていたらしい。 紫式部は、赤染衛門の和歌は本格的とも伝えています。 |
赤染衛門は、夫だけでなく子の挙周の任官にも奔走し、源倫子に 「思へ君頭の雪をうち払ひ消えぬ前にと急ぐ心を」 という歌を贈ると、それに感動した藤原道長は、挙周を和泉守に任官したのだとか。 「白髪に降りかかった雪が消えぬ間のように短い命、どうかお察しを・・・」 という意味らしい。 |
挙周が病になったときは住吉大社に和歌を奉納した。 「代はらむと思ふ命は惜しからでさても別れむほどぞ悲しき」 自分が身代わりになるので息子を助けて欲しいという意味らしい。 挙周の病は、たちまちに治ったのだとか。 |
「うつろはでしばし信太の森を見よかへりもぞする葛の裏風」 和泉式部は、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王と恋愛関係となったことで夫の橘道貞との関係は破綻。 さらに、為尊親王の薨去後、その弟の敦道親王と恋仲に。 そのことを心配して詠んだのが上の歌。 「夫が戻ってくるかもしれないから、そんなことをしていないで待っていなさい」 という意味らしい。 これに対して和泉式部は、 「秋風はすごく吹けども葛の葉のうらみがほには見えじとぞ思ふ」 という歌を返し、「夫は恨んではいない」と伝えたのだとか。 |
※ | 為尊親王と敦道親王は花山天皇の異母弟、三条天皇の同母弟。 |
赤染衛門の歌~和泉式部の不倫に反省を促す歌~ |
清少納言が父の清原元輔の屋敷に住んでいた頃、大雪が降って屋敷の囲いが倒れ掛かっていたのを知らせてあげたらしい。 「跡もなく雪ふるさとの荒れたるをいづれ昔の垣根とか見る」 参考までに、 清少納言は一条天皇の皇后宮・藤原定子に仕えていたが、赤染衛門や紫式部・和泉式部が彰子に仕える頃には宮中を去っている。 ただ、娘は小馬命婦は彰子に仕えたらしい(時期は不明)。 |
源雅信と藤原穆子の子・寂源は、987年(天延元年)頃に出家。 兄の源時通も出家していたことから、赤染衛門が作者ともいわれる『栄花物語』には憤る雅信の姿が描かれている。 |
勝林院は寂源が再興した寺院。 藤原道長はたびたび寂源を尋ねて講説を受けたのだという。 |
紫式部の物語論~『源氏物語』~蛍の巻~ |
藤原道隆は、まだ少将だった頃、赤染衛門の姉妹のところに通っていたらしい。 |
赤染衛門の歌~百人一首:道隆を待つ姉妹の気持ちになって~ |
西国観音三十三所巡礼の根本道場の長谷寺には、紫式部・赤染衛門・清少納言・藤原道綱の母・菅原孝標の娘などが参詣している。 「つとにとて折りし紅葉は枯れにけり嵐のいたく吹しまぎれに」 紅葉の枝を折って土産に持ち帰ったが枯れってしまった・・・ |
清水詣・石山詣・初瀬詣~平安貴族が信仰した清水寺・石山寺・長谷寺~ |
「鞍馬山月の光の明ければいかなりし夜の名にかとぞ見る」 鞍馬寺がある鞍馬山は、暗部山とか闇部山と呼ばれていたらしい。 月が明るい夜なのに、どういう夜に暗い山と呼ばれたのか・・・ |
「ともすらむ方だに見えず鞍馬山貴船の宮にとまりしぬべし」 鞍馬寺を参拝した後、御幣を奉るため貴船神社に詣でたが、暗くなってしまったので貴船神社に泊まったのだという。 貴船神社の創建地は奥宮の地。 |
「関越えてあふみちとこそ思ひつれゆきの白浜ここはいづこぞ」 石山寺の涅槃会に詣でたが、逢坂の関を越えると打出浜には雪がとても深く積もって真っ白で、どこなのかわからない状況だったのだとか。 |
逢坂の関は、山城国と近江国の国境に置かれた関所。 |
清水詣・石山詣・初瀬詣~平安貴族が信仰した清水寺・石山寺・長谷寺~ |
「別れけん昔の今日をいづくにてさかさも知 らで我過しけん」 涅槃会の日、禅林寺僧上に申し上げた歌。 |
「秋の野の花見る程の心をば行くとやいはんとまるとやいはん」 秋に法輪寺を参詣すると、嵯峨野には美しい花が咲いていた・・・ |
「ありしにもあらずなりゆく鐘の音つき果てむこそ哀なるべき」 檀林寺の鐘の音が地中から聞こえてくると聞いて・・・ |
「あせにけるいまだにかかり滝つ瀬のはやく来てこそ見るべかりけれ」 大覚寺の大沢池には、人工の滝が築かれていたのだという。 滝の勢いは衰えていたが、それでも見事だったことから、もっと早く来るべきだったと感じたらしい。 |
赤染衛門が大沢池で見た滝は、名古曽の滝。 藤原公任が 「滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」 と詠んだことで、この名で呼ばれるようになったのだという。 |
大覚寺は、嵯峨天皇が営んだ嵯峨院を前身とする寺。 嵯峨天皇は、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされる源融の父。 |
「いくよへて荒れし都の御垣根ぞ三笠の山の月は変はらで」 若草山は春日大社や東大寺の後方の山で三笠山とも呼ばれてきた。 長谷寺を参詣した後、平城京に泊まった夜の月は明るかったのだとか。 |
「春ごとに桜咲くやと待つよりは仏に散らす花をこそ見め」 清水寺に参詣すると、散華の時だった。 |
清水詣・石山詣・初瀬詣~平安貴族が信仰した清水寺・石山寺・長谷寺~ |
「我計ながらの橋は朽ちにけりなにはのこともふるる悲しき」 四天王寺参詣の時の通り過ぎる長柄の橋。 自分ばかりが長く生きて、長柄の橋は朽ちてしまった・・・ 『赤染衛門集』には、西大門・聖霊院・金堂・亀井・五重塔などで詠んだ歌が載せられ、当時の四天王寺信仰を端的に表している。 |
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