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清原元輔(きよはらのもとすけ)は、下総守・清原春光の子。 母は筑前守・高向利生の娘。 清少納言の父。 歌人としての名声は高く、951年(天暦5年)、村上天皇の命で昭陽舎(梨壺)に置かれた撰和歌所で、源順・紀時文・坂上望城・大中臣能宣とともに『後撰和歌集』の編纂を行った(梨壺の五人)。 「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは」 は『百人一首』に収められている歌。 986年(寛和2年)、肥後守に任じられ、5年後の990年(永祚2年)6月、任地で死去(享年83)。 |
清原氏は、天武天皇五世孫の清原有雄(有雄王)を氏祖とする一流。 平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて清衡・基衡・秀衡の三代にわたって栄華を極めた奥州藤原氏もその一流。 |
庚申の夜、藤原伊周が女房たちに歌を詠ませたが・・・ 清少納言は中宮・藤原定子から「詠まなくてよい」という許可を受けていたのだという。 それは、和歌の名手である父に遠慮したから。 |
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撰和歌所が置かれた昭陽舎は、内裏の後宮七殿五舎の一つで、庭に梨の樹が植えてあったことから「梨壺」と呼ばれていた。 |
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![]() (泉涌寺) |
元輔の邸宅は、泉涌寺の塔頭・今熊野観音寺付近にあったといわれる。 清少納言は晩年、藤原定子が眠る鳥辺野近くの東山月輪に隠棲したといわれ、泉涌寺には歌碑が建てられている。 定子の鳥戸野陵は、今熊野観音寺の北にある。 |
「卯の花に うちみえまよふ ゆふしてゝ けふこそ神を まつるへらなる」 この歌は家集の『元輔集』にあるもの。 下鴨神社の奈良殿神地には、卯の花が群生していたのだという。 |
元輔は奉幣使として加わった賀茂祭で落馬。 冠が滑り落ちて禿げ頭を晒してしまったのだとか。 |
985年(寛和元年)2月13日、円融院が紫野で催した子日の御遊には、元輔も呼ばれている。 紫野は船岡山の麓。 「船岡に 若菜つみつつ 君がため 子の日の松の 千世をおくらむ」 |
清原頼業を祀る車折神社には、清少納言社が建てられている。 元輔は、頼業と同じ天武天皇の第六皇子・舎人親王の後胤。 |
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