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藤原秀衡は、奥州藤原氏の三代当主。 父は藤原基衡。 母は安倍宗任の娘。 源義経を二度にわたって庇護した北方の王者。 |
奥州藤原氏は、後三年の役で源義家と結んで勝利を収めた清原清衡が出羽・陸奥を手に入れて「藤原」を名乗ったことに始まる。 以後、基衡・秀衡の三代、約100年にわたって栄華を極めた。 |
1157年(保元2年) |
1157年(保元2年)、父基衡が死去したことで家督を相続。 |
1170年(嘉応2年) |
鎮守府将軍に任ぜられる。 |
1174年(承安4 年) |
鞍馬寺を出奔した源義経を庇護。 |
鞍馬寺 |
義経元服の地 (滋賀県鏡の宿) |
源義経の奥州下り〜平治物語〜 『義経記』が描く源義経の奥州下り |
1180年(建久3年) |
源頼朝が挙兵。 兄のもとへ参じようとする源義経に佐藤継信・忠信兄弟を付けて送り出す。 |
1181年(治承4年)閏2月4日 |
平清盛が死去。 |
1181年(養和元年)8月13日 |
源頼朝を追討するよう勅命が下る。 『吾妻鏡』によると、越後の平資永(城資永)には木曽義仲追討の勅命が下されている。 いずれも、平宗盛からの申し出によるものらしい。 |
1182年(養和2年) |
源頼朝が秀衡調伏のため江の島に弁財天を勧請。 江の島に弁財天を勧請 (歴史めぐり源頼朝) |
江の島弁財天 |
伝源頼朝寄進 |
江島神社の辺津宮の奉安殿には、源頼朝が文覚に命じて勧請したと伝わる「八臂弁財天像」が安置されている。 奥津宮の石鳥居は、弁財天を勧請した際に頼朝が寄進したものと伝えられる。 |
1183年(寿永2年) |
東大寺の大仏の鍍金料として五千両の金を寄進。 |
1185年(元暦2年)2月19日 |
屋島の戦いで佐藤継信が討死。 |
1185年(元暦2年)3月24日 |
壇ノ浦で平家滅亡。 |
1185年(元暦2年)5月4日 |
源頼朝が源義経を勘当。 義経は後白河法皇から頼朝追討の宣旨を得るが、思ったように兵が集まらず、11月3日に都落ち。 大物浦より西国へと船出するが暴風雨により失敗。 吉野山へ逃げ込むが、その後は行方不明に。 |
義経の不義を訴える景時の書状 義経の無断任官 義経の腰越状 |
1186年(文治元年)9月22日 |
佐藤忠信が潜伏先の京都で襲撃され自刃。 |
1187年(文治3年)春 |
源義経が正妻の郷御前と子らとともに平泉に辿り着く。 |
鹽竈神社 (塩竃市) |
文治の燈籠 (鹽竈神社) |
鹽竈神社は奥州藤原氏が崇敬した陸奥国一宮。 文治の燈籠は、秀衡の三男・忠衡が奥州藤原氏と義経の平穏を祈願して寄進したもの。 |
1187年(文治3年)9月4日 |
源義経が平泉に匿われていることを知った源頼朝が「秀衡が関東に反逆を企てている」と訴えたことにより、「院庁下文」が発出される。 |
1187年(文治3年)10月29日 |
平泉館で死去。 臨終にのぞみ、長男国衡と次男泰衡を呼んで「源義経を主君として仕え、ともに団結して頼朝の攻撃に備えよ」 と遺言したのだと伝えられている。 藤原秀衡の死 |
中尊寺の金色堂の須弥壇には、初代清衡・二代基衡・三代秀衡のミイラ化した遺体が納められ、右壇には四代泰衡の首級が納められている。 |
藤原秀衡が亡くなると、跡を継いだ泰衡は、源頼朝の圧力に屈し、1189年(文治5年)閏4月30日、衣川館の源義経を襲撃して自刃に追い込んだ。 |
1189年(文治5年)7月19日、源頼朝は藤原泰衡討伐のため奥州へ向けて出陣。 幕府軍が平泉に迫ると、8月11日、泰衡は平泉館を焼き払って逃亡。 9月3日、比内郡贄柵で、郎党の河田次郎に殺され、清衡以来四代にわたって栄華を極めた奥州藤原氏が滅亡した。 |
中尊寺 |
毛越寺 |
中尊寺は 初代清衡が建立。 毛越寺は、二代基衡が造営に着手し、三代秀衡のときに完成。 |
『吾妻鏡』が伝える中尊寺 『吾妻鏡』が伝える毛越寺 |
観自在王院跡 |
無量光院跡 |
観自在王院は基衡の妻が建立。 無量光院は秀衡が建立。 |
秀衡が建てた無量光院は、悉く宇治の平等院を模して建てられたのだという。 |
平等院の阿弥陀堂(鳳凰堂)は、関白藤原頼通が建立。 |
源頼朝が鎌倉に建てた永福寺は、平泉の寺院を模して建てた寺院。 |
願成就院は、北条時政が源頼朝の奥州討伐の戦勝を祈願して建立した寺院で、北条三代(時政、義時、泰時)にわたって、次々に堂宇が建立され繁栄を極めた。 その伽藍は、平泉の毛越寺を模した構成だったのだという。 |
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