|
「鎌倉殿の13人」に関連する寺社・史跡を関連人物・歴史とともに源頼朝の鎌倉入りからご紹介。 |
1180年(治承4年)8月17日、伊豆国に流されていた源頼朝が挙兵。 山木館を襲撃して伊豆国の目代山木兼隆を討ち取ります。 その後、相模国へ進軍。 石橋山の戦いで敗れてしまいますが、真鶴から安房国へ渡って再挙。 挙兵に参じた安達盛長・岡崎義実・土肥実平・田代信綱・北条時政・北条義時らに加えて、下総国の千葉常胤・上総国の上総広常が参陣。 隅田川を渡って武蔵国に入ると豊島清元・葛西清重・足立遠元が参陣。 長井の渡しに達すると、畠山重忠・河越重頼・江戸重長が参陣。 幾千万かわからない程の大軍となった頼朝軍は、10月6日、相模国に入ります。 先陣は畠山重忠、殿は千葉常胤。 ただこの時、北条時政と北条義時は、武田信義との連絡のため甲斐国に赴いていました。 6日、民家に宿泊した頼朝は、7日、鶴岡八幡宮(由比若宮)を遥拝し、父義朝の旧跡(壽福寺付近)を視察。 11日には、石橋山の戦い後、伊豆山権現の覚淵の計らいにより秋戸郷で暮らしていた北条政子も鎌倉に入っています。 |
浄光明寺の不動明王は、京都の八坂の塔が傾いたときに祈祷の本尊だっという伝説の像。 長く神護寺に置かれていましたが、文覚がこの像の中に以仁王の平家打倒の令旨を隠して伊豆の頼朝に届けたのだとか・・・ ただ、その様式から南北朝時代から室町時代のものらしい。 |
頼朝に鎌倉入りを進言したのは千葉常胤でした。 光明寺の支院蓮乗院は、弁谷に屋敷があったという常胤の檀那寺であったといわれています。 |
鎌倉入りは、亀ヶ谷坂を利用したと考えられているようです。 |
全ての情報を同一ページに表示させると、開くときに動作が遅くなるようですので、分割させて頂きました。 |
源頼朝の鎌倉入りから源平合戦まで。 |
源義経の追放から源頼朝の死まで。 |
有力御家人が滅ぼされた時代。 |
源実朝暗殺・承久の乱、義時・広元・政子の死。 |
2023年の大河は、『吾妻鏡』を愛読し、源頼朝を尊敬していたという徳川家康。 |
「大河ドラマ館」は鶴岡八幡宮の施設「鶴岡ミュージアム」に設置されています。 |
静岡県島田市には、伊豆に流されていた頼朝が参籠して源氏再興を祈願したと伝えられる智満寺があります。 頼朝お手植えとされていた頼朝杉がありましたが、残念ながら2012年(平成24年)に倒木。 しかし、その一部は2015年(平成27年)に弥勒菩薩像として蘇り、2022年(令和4年)には頼朝像が完成して鎌倉の鶴岡八幡宮に奉納される予定です。 |
鶴岡八幡宮に奉納されるはずだった源頼朝像 |
11月23日(水・祝)、伊豆の国大河ドラマ館が設置されている韮山時代劇場で、智満寺に聳えていた源頼朝お手植えの頼朝杉で造立された「源頼朝像」が公開されます。 |
鎌倉幕府滅亡・北条氏滅亡 |
源頼朝が樹立した鎌倉幕府は、1333年(元弘3年)5月、後醍醐天皇の綸旨を受けて上野国の生品神社で挙兵した新田義貞によって滅ぼされました。 時政・義時・泰時と続いた北条氏も九代目の高時が鎌倉の東勝寺で自刃したことにより滅亡しています。 新田氏の祖義重は、徳川家康の先祖といわれています。 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |