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北条政子は、伊豆国の豪族北条時政の長女。 1157年(保元2年)に伊豆国で誕生。 母は伊東祐親の娘ともいわれるが定かではない。 1177年(治承元年)頃、蛭ヶ小島に流されていた源頼朝と結婚し、頼朝が鎌倉に武家の都を創ると御台所として鎌倉幕府を支えた。 「政子」という名は父時政の名から付けられたと伝えられているが、「政子」と呼ばれるようになったのは、1218年(建保6年)に従三位に叙せられたときからなのだという。 それ以前はどのように呼ばれていたのだろうか??? |
伊豆の国市の北条氏邸跡には、北条政子産湯の井戸が残されている。 |
北条政子と北条義時の母は伊東祐親の娘? 〜政子と義時は曽我兄弟といとこ〜 |
伊豆国の蛭ヶ小島の流人頼朝と政子の仲を取り持ったのは安達盛長だったのだとか・・・ 『曽我物語』によると・・・ 時政に三人の娘がいることを知った頼朝。 長女は先妻との娘で21歳、二女と三女は今の妻との娘で19歳と17歳。 頼朝は二女に手紙を書き、盛長に預けた。 しかし、盛長は、二女と三女は悪女だという噂があったため、宛名を長女に書き替えて届けさせたのだとか。 その長女の名は北条政子。 二人は手紙のやりとりを重ね、そのうちに密かに会うようになったのだという。 |
頼朝が流されていたという蛭ヶ小島は、政子の暮らす北条氏邸からさほど遠くない所にあった。 北条氏ゆかりの成福寺の建つ地は、北条氏邸の一部だったと考えられ、頼朝と政子の別亭があった場所ともいわれている。 |
頼朝が流されたという蛭ヶ小島に建てられている梛の葉の縁結びの碑。 頼朝と政子は、伊豆山権現の加護によって結ばれたのだという。 |
北条宗時(弟) ・・・石橋山の戦いで討死 北条義時(弟) ・・・鎌倉幕府二代執権 北条時房(弟) ・・・鎌倉幕府初代連署 ○時子(妹) ・・・足利義兼の妻 阿波局(保子 妹) ・・・頼朝の弟全成の妻 |
※ | 宗時は政子の兄とする説があったが、近年では弟とする説が有力となっている。 |
1180年(治承4年)8月17日、源氏再興を果たすために頼朝が挙兵。 伊豆国目代の山木兼隆を討つと、相模国へ進軍。 政子と娘の大姫は、走湯権現(伊豆山権現)の覚淵に匿ってもらうが、頼朝が石橋山で大敗すると秋戸郷で身を潜めていた。 |
伊豆山神社は、頼朝と政子が崇敬した社。 境内には、頼朝と政子の腰掛石が残されている。 |
10月6日、安房国で再挙した頼朝が大軍を率いて鎌倉入りを果たすと、10月11日、政子と大姫も鎌倉に入った。 前日には秋戸郷から稲瀬川に到着していたのだが、良日ではなかったため、民家に留まっていたのだという。 |
1182年(寿永元年)8月、政子は男子を出産(源頼家)。 鶴岡八幡宮社頭から由比ヶ浜までの参道「若宮大路」は、政子の安産を願って造営されたのだと伝えられている。 これと併せて、段葛や源平池も造営された。 源頼家誕生 |
若宮大路は、鶴岡八幡宮を内裏に見立て、平安京の朱雀大路を模して造営された |
政子が頼家を妊娠している間、頼朝は蛭ヶ小島にいたころから仕えていた亀の前を伏見広綱邸に住まわせ寵愛。 牧の方(父時政の後妻)からそのことを知らされた政子は、牧宗親に命じて広綱の屋敷を打ち壊させた(参考:小坪路 鐙摺山)。 浮気発覚・政子激怒 源頼朝に褒められた義時 |
1183年(寿永2年)、木曽義仲の嫡子義高が人質として鎌倉に送られてきた。 名目上は大姫の婚約者として・・・ 大姫は義高をとても慕っていたが、頼朝は、1184年(元暦元年)、源範頼と源義経に命じて義仲を討つと、鎌倉の義高をも殺害。 それが原因で大姫は病の床に。 政子は、大姫が病気になったのは義高を討った藤内光澄の配慮が足りなかったとして斬罪に処している。 木曽義高の誅殺 |
常楽寺裏山の木曽塚には、木曽義高の首が葬られていると伝えられている。 |
狭山市は義高終焉の地。 清水八幡宮は、義高を祀る社。 首を取られた義高の遺体は、里人によって入間河原に葬られ、政子が供養をし、義高を祀る社が建てられたのだという。 |
1186年(文治2年)、吉野山で捕らえられた源義経の愛妾静御前が鎌倉に送られてきた。 4月8日、頼朝と政子は鶴岡八幡宮の若宮回廊で「静の舞」を観覧。 静が義経を慕う歌を歌いながら舞ったため、頼朝は激怒したが、政子はそれをとりなしたのだと伝えられている。 |
北条政子を感動させた静の舞〜梁塵を動かす歌と舞〜 母と子との悲しい運命〜源義経の子を産んだ静御前〜 |
1189年(文治5年)4月18日、可愛がっていた弟(時房)が元服。 三浦義連が烏帽子親だったため「時連」と名付けられたが、1202年(建仁2年)、「時房」と改名。 このとき、政子は改名を勧めた平知康の言動に激怒している。 |
北条時房の元服と北条政子が激怒した改名の逸話 |
1192年(建久3年)、頼朝が征夷大将軍に。 そして、その年の8月9日、政子は次男の千幡を出産した(源実朝)。 源実朝の誕生 北条政子安産の祈願所 |
1193年(建久4年)、頼朝が催した富士裾野の巻狩りで、長男頼家が鹿を射止めた。 さっそく鎌倉の政子にそのことが知らされたのだが・・・ 政子は 「武家の子が鹿を射たくらいで・・・」 として使者を追い返したのだという。 |
富士裾野の巻狩りでは、曽我兄弟の仇討ちが発生。 この事件で頼朝も討たれたとの情報が鎌倉に入ると、動揺する政子に頼朝の弟範頼は「私がいるから大丈夫」と言ったのだとか。 この言葉が謀反の疑いを招き、範頼は修禅寺に流され、間もなく梶原景時に攻められて自害したのだと伝えられている。 |
1195年(建久6年)、頼朝は東大寺の大仏殿落慶供養に出席するため上洛。 政子、大姫、頼家も同行した。 頼朝は、この上洛で大姫入内のはたらきかけを行っているが、実現することはなく、1197年(建久8年)7月14日、大姫死去(20歳前後)。 勝長寿院に埋葬されたものと考えられている。 |
1199年(建久10年)1月13日、頼朝が死去。 相模川の橋供養に出席した際の落馬が死因とされているが、詳細は不明。 |
旧相模川橋脚は、相模川に架けられていた橋の遺構で、頼朝が渡り初めをした橋ではないかと考えられている。 相模川の橋は、稲毛重成が亡き妻(政子・義時の妹)の供養のために架けた橋だった。 |
『吾妻鏡』によれば、1200年(正治2年)正月13日、頼朝が葬られた法華堂では、源頼朝の一周忌が営まれ、政子が自らの髪の毛を除髪して刺繍したという「梵字の曼荼羅」が掲げられた。 |
長興山紹太寺の本尊・釈迦牟尼は、政子が源頼朝の三回忌にあたって伊勢原に建立した浄業寺の本尊だったのだという。 |
甲斐善光寺の源頼朝像は、信濃善光寺にあったもので、政子が造像させたものと考えられている。 |
頼朝が亡くなると、北条氏は有力御家人を次々に滅ぼし、幕府の実権を握った。 その一方で政子は、全ての子を失うことに・・・ |
頼朝の死後、家督は長男の頼家が継いだが、頼家の悪政に対する批判が多かったため、これまでの将軍独裁の政治から、宿老13人による合議制による政治に改められた。 源頼家の近習5人 安達景盛の妾を奪った源頼家 |
二女三幡(乙姫)は、1186年(文治2年)の生まれといわれている。 頼朝が亡くなって間もない1199年(正治元年)6月30日に死去。 乳母夫中原親能の亀谷堂に埋葬されたのだという。 |
岩船地蔵堂の石造地蔵尊は大姫の守本尊と伝えられているが、三幡の墳墓堂ではないかという説もある。 |
1199年(正治元年)11月、頼家の乳母夫梶原景時が、結城朝光を讒言したとして御家人66名から弾劾を受けて失脚。 翌年正月20日、景時は上洛途上の駿河国清見関で討死した。 政子の妹保子(阿波局)の密告から起こった事件だった。 |
阿野全成は、頼朝の異母弟・義経の同母兄・政子の妹保子(阿波局)の夫。 1203年(建仁3年)6月23日、頼家への謀反を企てたとして誅殺された。 頼家は、阿波局の引き渡しも求めたが政子が拒否したのだという。 |
1203年(建仁3年)9月2日、北条時政が頼家の乳母夫比企能員を暗殺。 その一方で、政子の命により、北条義時らが比企邸を攻め、一族を滅亡させた(比企能員の変)。 |
比企能員の変後、頼家は時政追討を命じるが・・・ 伊豆修禅寺に幽閉され、翌年7月18日、暗殺された。 頼家の跡は弟の実朝が継いだ。 |
指月殿 |
浅草寺宝蔵門 |
頼家墓の横にある指月殿は、頼家の冥福を祈るために、政子が建てたのだという。 浅草の浅草寺の宝蔵門には、政子が頼家の追善供養のために中国から取り寄せて鶴岡八幡宮に奉納したという「元版一切経」が収められている。 |
北条政子の配慮で出家した源頼家 |
1205年(元久2年)6月22日、北条時政の謀略により、「鎌倉武士の鑑」といわれた畠山重忠が討たれた。 |
畠山重忠の乱後、政子と北条義時は、北条時政が後妻の牧の方と謀って実朝を亡きものにし、娘婿の平賀朝雅を将軍に据えようと企てたことから、時政を追放(牧の方の陰謀)。 閏7月20日、伊豆国へ下向した時政は、1215年(建保3年)1月6日に北条の地で死去。 |
1213年(建暦3年)5月3日、北条義時に挑発されて挙兵した和田義盛が滅亡。 |
1219年(承久元年)1月27日、実朝が鶴岡八幡宮で甥の公暁に暗殺され、公暁も三浦義村邸へ赴く途中で討伐された。 これによって源家の血が途絶えた。 また、政子は全ての子を失った。 政子は、実朝の追福のために、勝長寿院に五仏堂を建立している(本尊は、運慶の五大尊像(五大明王))。 |
壽福寺五輪塔 (鎌倉) |
源実朝公御首塚 (秦野市) |
高野山の金剛三昧院は、政子の発願で頼朝と実朝の供養のために建てられた寺院。 |
高野山の源氏三代(頼朝・頼家・実朝)の五輪塔は、頼朝の三男で政子が帰依した貞暁が建てたもの。 |
実朝の死によって、将軍が不在となったことから、政子は後鳥羽上皇の皇子を将軍として迎えようとするが断られ、藤原(九条)道家の子三寅を迎えることに(のちの頼経)。 三寅はまだ2歳だったことから、政子が後見役となり「尼将軍」と呼ばれるようになる。 北条政子の上洛と将軍継嗣問題 鎌倉殿:北条政子 |
1221年(承久3年)5月15日、後鳥羽上皇が執権北条義時追討の院宣を下した(承久の乱)。 尼将軍政子は御家人たちを前にして「故右大将の恩は山よりも高く海よりも深い・・・」と説いて、御家人らの動揺を収めたのだと伝えられている。 5月22日、北条泰時(義時の子)が出陣すると続々と兵が参集し、6月15日、京市中に入った幕府軍は朝廷軍を鎮圧。 後鳥羽上皇をはじめとする三上皇が流罪となった。 |
北条義時追討の官宣旨案 (神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵)) 北条義時追討の宣旨 (『承久記』(流布本)) 北条義時追討の院宣 (『承久記』(慈光寺本)) 北条義時追討の宣旨に対する返書 |
承久の乱後、政子は西園寺公経を太政大臣に推挙。 京都御苑の白雲神社は公経ゆかりの社。 |
1224年(貞応3年)6月13日、北条義時が急死。 義時の死後、三代執権には北条泰時が就任するが、義時の後妻の伊賀の方は、兄伊賀光宗と謀反を企てたとして伊豆国に追放された(伊賀氏の変)。 ただ、この事件は、政子のでっちあげだともされ、泰時は謀反を否定している。 |
北条義時は毒殺されたのか? 北条泰時の執権就任と伊賀氏の変と三浦義村 |
1225年(嘉禄元年)7月11日、源頼朝の妻として、頼家・実朝の母として、四代将軍藤原頼経の後見役として、鎌倉幕府の基礎を築いた北条政子が死去(享年69)。 勝長寿院で荼毘に付され葬られたと伝えられている。 |
北条政子の死 北条政子の前に現れた伊賀の方の怨霊 |
政子五輪塔 (鎌倉:壽福寺) |
政子宝篋院塔 (鎌倉:安養院) |
壽福寺は、1200年(正治2年)、政子が頼朝の父義朝の旧蹟に、我が国臨済宗の開祖栄西を招いて開いた寺。 安養院は、1225年(嘉禄元年)、政子が頼朝の菩提を弔うために建てた長楽寺を前身とする寺。 |
尼将軍と呼ばれた政子の晩年は、観音像の描くことを日課としていたのだという 壽福寺には、政子が描いたという観音像が伝えられている。 |
願成就院の地蔵菩薩像は、政子の七回忌の折、三代執権北条泰時が奉納したものと伝えられている。 政子が自分の姿に似せて造らせた仏像であるとも。 |
智満寺は、伊豆の流人だった頼朝が参籠して源氏再興を祈願したという古刹。 国の重要文化財に指定されている阿弥陀如来及諸尊像刻出龕は政子の寄進と伝わる。 |
伊豆山神社・箱根神社・三嶋大社は、頼朝と政子が崇敬し、源氏再興を祈願した社。 |
伊豆山神社 (熱海市) |
箱根神社 (箱根町) |
三嶋大社 (三島市) |
厳島神社 (三嶋大社) |
日向薬師(霊山寺)は、頼朝が大姫の病気治癒祈願のために参詣した薬師如来の霊場。 実朝誕生の際には安産祈願所となった。 1210年(承元4年)6月8日、政子は日向薬師を参詣。 翌1211年(建暦元年)7月8日にも実朝の正妻坊門姫(西八条禅院)とともに参詣している。 毎年10月の伊勢原市の道灌まつりでは「北条政子日向薬師参詣行列」が行われている。 |
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