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『吾妻鏡』によると・・・ 1204年(元久元年)8月4日、三代将軍・源実朝の正室を京都から公卿の娘を迎えることに決定。 幕府内では足利義兼の娘が候補にあがっていたが、実朝の強い希望があったのだという。 選ばれたのは前大納言・坊門信清の息女(坊門姫・信子・西八条禅院)。 坊門姫の父坊門信清は後鳥羽上皇の母方の叔父。 したがって坊門姫は後鳥羽上皇と従兄妹(いとこ)の関係。 姉の坊門局(西御方)は後鳥羽上皇の後宮に入り、道助入道親王・ 頼仁親王・嘉陽門院を産んでいる。 10月14日、実朝直々の希望で風貌の良い若い勇敢な武士が坊門姫を迎えにいくことに。 北条政範・結城朝光・千葉常秀・畠山重保・八田知尚・和田宗実・土肥惟光などが上洛し、12月10日、鎌倉に到着。 『明月記』によると、実朝の名付け親である後鳥羽上皇は、坊門姫の出発の様子を法勝寺西大路鳥居の桟敷から見物していたのだという。 子には恵まれなかったが、実朝とは仲が良かったとされ、尼御台の北条政子も坊門姫を立てていたらしい。 |
※ | 源頼朝の姉妹も坊門姫と呼ばれるが別人。 |
※ | 信子が実名ともいわれるが、信子は信清の妹のことだとする説がある。 |
※ | 公卿の娘を正室にすることは実朝の希望だったというが、北条時政の意向が大きいのかもしれない。 |
※ | 坊門姫の兄忠清の妻は時政の娘。 |
※ | 北条政範は北条時政と牧の方の子で、上洛中に病死している。 |
※ | 上洛中、時政と牧の方の娘婿で京都守護の平賀朝雅と畠山重保が口論、この事件がのちに畠山重忠の乱を引き起こす。 |
日向薬師(霊山寺)は、源頼朝や北条政子が信仰した薬師如来の霊場。 1211年(建暦元年)7月8日、坊門姫も政子と参詣。 毎年10月の伊勢原市の道灌まつりでは「北条政子日向薬師参詣行列」が行われている。 |
1212年(建暦2年)3月9日、実朝は政子と坊門姫を連れて三崎の御所へ出かけ、船中で鶴岡八幡宮の稚児たちの舞楽舞を楽しんでいる。 三崎の御所とは、頼朝の椿の御所・桜の御所・桃の御所。 |
1213年(建暦3年)2月27日、後鳥羽上皇は実朝を正二位に叙した。 「山はさけうみはあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」 この歌は、それに際して詠んだのだという。 |
永福寺は頼朝が建立した寺院。 1217年(建保5年)3月10日、実朝は坊門姫と同じ牛車に乗って花見に出かけている。 |
1219年(建保7年)1月27日、実朝が暗殺されると、翌日、寿福寺の退耕行勇を戒師として出家。 法名は本覚尼。 京へ戻ると、1222年(貞応元年)、自邸に実朝の菩提寺・遍照心院(現在の大通寺)を建立。 自邸が西八条にあったことから、通称で西八条禅尼と呼ばれていた坊門姫は、1274年(文永11年)9月18日死去(享年82)。 寺に何か問題が起こったときは安達泰盛に訴えるよう遺言していたのだという。 泰盛は、実朝に尽くした安達景盛の孫。 保護を求めるのが執権の北条時宗でないのは、実朝が景盛に大きな信頼を寄せていたように、坊門姫も景盛と孫の泰盛に信頼を寄せていたからなのかもしれない。 |
大通寺(万祥山遍照心院)は、坊門姫が実朝の菩提寺として建立したことに始まる。 |
高野山の金剛三昧院は、政子の発願で頼朝の供養のために建立された禅定院を始まりとする寺院。 実朝が暗殺されると、菩提を弔うために安達景盛が奉行として伽藍を整備し、金剛三昧院と改称されたのだという。 景盛の孫泰盛も金剛三昧院の発展に尽くしている。 |
実朝が暗殺されると、これまで保たれてきた朝廷と幕府の関係が崩壊。 1221年(承久3年)、後鳥羽上皇が北条義時追討の宣旨を発する事態に(承久の乱)。 『吾妻鏡』によると・・・ 承久の乱では、坊門姫の兄坊門忠信が葉室光親・葉室宗行・源有雅・藤原範茂・一条信能とともに合戦の張本として捕らえられた。 忠信を除く5人の公卿は処刑されたが、忠信は政子の申し入れで許されている。 合戦張本の公卿 |
藤原隆家は、関白藤原道隆の四男。 兄の伊周とともに藤原道長と政権を争った平安中期の公卿。 源頼朝の命を救った池禅尼や坊門姫は、隆家の子孫なのだという。 |
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