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源頼朝は、河内源氏の棟梁源義朝と熱田神宮大宮司藤原季範の娘由良御前の子。 同母の兄弟姉妹には弟の希義と姉の坊門姫がいた。 『平治物語』によると・・・ 1159年(平治元年)の平治の乱で義朝が平清盛に敗れると、希義は、駿河国の香貫で捕えられ、土佐国気良に流罪。 坊門姫は義朝に仕えていた後藤実基の養女となり、都で密かに育てられたのだという。 |
京都で育った坊門姫は、平家全盛の時代に公卿の一条能保の妻となり、高能、九条良経室、全子(西園寺公経室)、保子(後鳥羽天皇乳母)を産む。 頼朝に信頼されていた夫の能保は、1184年(元暦元年)頃に鎌倉に滞在。 『吾妻鏡』には頼朝が花見や海辺の散策などに能保を誘っている記事が載せられている。 1185年(元暦2年)5月、能保は再び鎌倉へ下り、頼朝とともに勝長寿院の造営の進み具合などを監督。 10月には勝長寿院の供養について頼朝から相談を受け、供養の日には坊門姫とともに参列した。 1186年(文治2年)2月、能保と坊門姫は京都へ帰るが、頼朝は坊門姫を後鳥羽天皇の乳母に推薦していた。 ただし、実際に乳母となったのは、娘の保子。 そして、京都に戻った能保は京都守護に任命されている。 それから4年後の1190年(建久元年)4月20日、鎌倉に佐々木定綱の伝令が到着し、4月13日に坊門姫が難産のため死去したことが伝えられた(46歳)。 頼朝はとても悲しみ、4月22日には京都へお悔やみの使者を遣わし、5月3日には勝長寿院で追善供養を行っている。 さらに、5月5日の端午の節句には御所に菖蒲を飾らず、5月10日には定綱に四十九日の法要を営むよう命じている。 5月19日の山田重弘の報告によると・・・ 坊門姫は、存命を願って出家までしたが亡くなってしまい、4月14日に仁和寺の辺りに葬られたのだという。 その日は賀茂祭(葵祭)だったのだとか・・・ |
※ | 坊門姫は頼朝の姉ではなく妹という説が有力だが、『吾妻鏡』の記録からすると姉ということになる。 |
※ | 三代将軍源実朝の正妻も坊門姫(西八条禅院)と呼ばれるが別人。 |
鎌倉幕府の将軍は、頼朝・頼家・実朝と続くが、源氏の将軍は実朝で途絶える。 その後、北条政子は京都より四代将軍を迎えた。 それが坊門姫の曾孫にあたる九条頼経。 五代将軍の頼嗣は玄孫。 六代将軍の宗尊親王は、坊門姫の玄孫にあたる宰子を正室としている。 七代将軍の惟康親王と八代将軍の久明親王は来孫。 鎌倉幕府最後の将軍となった守邦親王は昆孫にあたる。 |
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