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源実朝(みなもとのさねとも)は、源頼朝と北条政子の次男。 1192年(建久3年)8月9日に誕生(実朝の誕生)。 1203年(建仁3年)、兄頼家の失脚後、12歳で三代将軍となった(参考:比企氏の乱)。 「実権は二代執権北条義時と母である北条政子に握られ、蹴鞠や和歌にふけるようになる」という批判的な評価がされがちだが、将軍親裁を推進し、大江広元や北条義時らの幕府首脳部に劣らない政治手腕を発揮。 後鳥羽上皇とも良好な関係を築き上げたが・・・ 。 1219年(建保7年)1月27日、鶴岡八幡宮での右大臣拝賀式の際に、甥の公暁(兄頼家の子)に暗殺されてしまう(源実朝の暗殺(源氏の滅亡) )。 |
実朝は、官位の昇進を強く望んでいた。 『吾妻鏡』によると、その理由は「源氏の正統は実朝で絶えることになるので、せめて高官に昇り、家名をあげたい」というもの。 それには「将軍後継に後鳥羽上皇の皇子」という考えがあったという説がある。 次々に昇進を続けた実朝は、最終的に右大臣となった。 後鳥羽上皇の官打(かんうち)ともいわれるが、武家政権との融和を図っていたと考える方が妥当なのかもしれない。 昇進を重ねた源実朝 |
※ | 「官打」とは、身分不相応な位に昇らせ不幸にしようという考えのこと。 |
1203年(建仁3年)6月23日 |
乳母夫の阿野全成が謀反を企てたとして誅殺される。 全成は源頼朝の異母弟で、妻は北条政子の妹阿波局。 |
1203年(建仁3年)9月7日 |
9月2日、北条時政が比企能員を暗殺、9月7日、兄頼家が出家、同日、征夷大将軍に就任。 |
兄源頼家の失脚で将軍となった源実朝 慈円の愚管抄が伝える比企能員の変 |
1203年(建仁3年)10月8日 |
元服。 実朝の名は、後鳥羽上皇から賜った。 |
1204年(元久元年)7月18日 |
兄頼家が幽閉先の修禅寺で暗殺される。 |
1204年(元久元年)12月10日 |
坊門信清の息女(坊門姫(西八条禅院))を妻として迎える。 坊門姫は後鳥羽上皇の従兄妹。 |
1205年(元久2年)4月12日 |
十二首の和歌を作る。 |
1205年(元久2年)6月22日 |
畠山重忠が北条時政の謀略によって討たれた。 それから間もない閏7月、時政とその妻牧の方が実朝を亡きものとして平賀朝雅を将軍に据えようという企てが発覚し、時政と牧の方は伊豆へ追放され、平賀朝雅は誅殺された。 |
1205年(元久2年)8月 |
北条時政と牧の方の娘を妻としていた宇都宮頼綱が謀反の疑いをかけられ出家。 |
1205年(元久2年)9月2日 |
藤原定家の門弟・内藤朝親(知親)が筆写した『新古今和歌集』が献上される。 『新古今和歌集』は後鳥羽上皇の命によって編纂され、父頼朝の歌が二首が入集しているものだが、この時はまだ発表はされていない段階。 |
1206年(建永元年)10月20日 |
北条政子の計らいで兄頼家の子善哉(のちの公暁)を猶子とする。 |
1206年(建永元年)11月18日 |
北条義時の別荘で北条泰時・東重胤・内藤朝親らと和歌の会。 |
1206年(建永元年)11月18日 |
帰参が遅れた東重胤を蟄居させる。 |
源実朝の勘気を蒙った東重胤と北条義時の助言 |
1206年(建永元年) |
鶴岡八幡宮の良信が江島神社に辺津宮を建立。 |
江の島 |
辺津宮 |
源実朝が請来した仏舎利の伝説 |
1207年(建永2年)12月2日 |
この年の鶴岡八幡宮の放生会での任務懈怠のため出仕を止められていた吾妻助光が、アオサギを射落とす妙技を見せて許される。 |
源実朝とアオサギを射落とした吾妻助光と北条義時 |
1208年(承元2年)2月 |
疱瘡を患う。 これ以後、鶴岡八幡宮への参詣を止める。 |
1208年(承元2年)5月29日 |
正室坊門姫に仕える藤原清綱から先祖の藤原基俊が書き写したという『古今和歌集』を献上される。 このとき清綱は、後鳥羽上皇が新日吉社で催した流鏑馬についても語っている。 |
1208年(承元2年)12月15日 |
鶴岡八幡宮の神宮寺の本尊薬師如来の開眼供養。 導師は、鶴岡八幡宮の供僧で日光山の座主真智坊法橋隆宣。 |
1209年(承元3年) |
政所の設置。 政所は従三位以上の公卿に許された家政機関(実朝は4月10日に従三位に叙せられている。)。 |
1209年(承元3年) |
3月14日、武蔵国田文作成・国務条々制定 8月9日、神社佛寺領の興行令 10月13日、諸国御牧興行令 |
1209年(承元3年)5月12日 |
和田義盛が上総国司の挙任を実朝に申請。 |
上総介の任官を望んでいた和田義盛 |
1209年(承元3年)5月20日 |
梶原家茂が土屋宗遠に殺害される。 |
梶原家茂を殺害した土屋宗遠を赦免した源実朝 |
1209年(承元3年)7月5日 |
夢のお告げにより、和歌二十首を住吉大社に奉納し、藤原定家に三十首の和歌の添削を依頼。 使いは内藤朝親(知親)。 |
1209年(承元3年)9月29日 |
園城寺の公胤が下向。 |
鎌倉に下向した園城寺の公胤と源実朝 |
1209年(承元3年)11月14日 |
北条義時の郎従を御家人に準ずる扱いとすることを拒否。 |
1210年(承元4年)正月1日 |
源頼朝が定めた鶴岡八幡宮の元旦初詣を復活させる。 ただし、北条義時が代参。 |
1210年(承元4年)5月6日 |
大江広元の屋敷で北条義時・北条時房らが参加した和歌が催され、広元から『古今和歌集』、『後選和歌集』、『拾遺和歌集』が贈られる。 |
1210年(承元4年)7月8日 |
兄頼家の正室・辻殿(善哉の母)が壽福寺の退耕行勇を戒師として出家。 |
1210年(承元4年)11月8日 |
明け方、駿河国の建穂寺の鎮守馬鳴大明神から酉年に戦があるというお告げ。 酉年に起こるのは和田合戦・・・ |
1211年(承元5年)閏正月9日 |
北野天満宮の梅の種から育てた永福寺の梅の木を御所に移植。 |
1211年(承元5年)2月22日 |
1208年(承元2年)に疱瘡を患って以来止めていた鶴岡八幡宮を参拝。 |
1211年(建暦元年) |
6月26日、東海道新宿建立令 7月4日、貞観政要の講読を始める。 12月27日、駿河・武蔵・越後等大田文作成 |
1211年(建暦元年)7月8日 |
正室の坊門姫が北条政子と日向薬師を参詣。 |
1211年(建暦元年)7月 |
「時によりすぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ」 この歌は大山阿夫利神社に祈念したときの歌なのだという。 大山寺の倶利伽羅堂がその時の堂なのだとか・・・ |
阿夫利神社 |
倶利伽羅堂 (大山寺) |
1211年(建暦元年)9月15日 |
兄頼家の子善哉が鶴岡八幡宮の定暁のもとで出家、公暁と名乗り、翌日には上洛して園城寺に入室。 |
1211年(建暦元年)10月 |
鎌倉に下向した鴨長明と面会。 長明は、京都下鴨神社の摂社河合神社の禰宜職の争いに敗れて隠棲し、『方丈記』や『無名抄』を著した。 源頼朝の法華堂では「草も木もなびきし秋の霜消えて空しき苔をはらう山風」と詠んでいる。 源実朝と鴨長明 |
1211年(建暦元年)11月 |
北条政子が鶴岡八幡宮の神宮寺に薬師三尊を安置。 壽福寺の薬師如来坐像がその中尊と考えられ、実朝の病気平癒祈願に造立されたものと考えられている。 |
1212年(建暦2年) |
2月19日、京都大番役推進令 2月28日、相模川橋修理令 8月19日、鷹狩禁断令 |
1212年(建暦2年)3月9日 |
北条政子と正室の坊門姫を連れて三崎の御所へ出かけ、船中で鶴岡八幡宮の稚児たちの舞楽舞を楽しむ。 |
1212年(建暦2年)6月20日 |
壽福寺の栄西を訪れ、仏舎利三粒を譲り受ける。 のちに実朝は宋から仏舎利を請来。 円覚寺の舎利殿や京都の鹿王院の舎利殿に納められているものがそれなのだという。 |
源実朝が栄西から譲り受けた仏舎利と宋から請来した仏舎利 |
室町時代、円覚寺の仏舎利は、その一部が京都に献じられ、鹿王院に安置されたらしい。 |
1213年(建暦3年)2月27日 |
閑院造営に協力した賞として正二位に叙される。 北条義時も正五位、相模守に。 |
1213年(建暦3年)2月 |
泉親衡による源頼家の遺児千寿丸を擁立しようとする企てが発覚し、和田義盛の子の義直、義重、甥の胤長らが捕らえられる。 そのうちの渋川兼守は、荏柄天神社に和歌を奉納したことで許されている。 |
1213年(建暦3年)5月2日 |
和田義盛が北条義時打倒の挙兵(和田合戦)。 この合戦により和田氏が滅んだ。 |
1213年(建暦3年)5月4日 |
和田合戦の先陣について三浦義村と波多野忠綱が論争。 |
和田合戦の先陣を言い争った波多野忠綱と三浦義村 |
1213年(建暦3年)5月10日 |
日光山の弁覚に和田合戦の褒賞を与える。 |
日光山輪王寺 |
日光二荒山神社 |
和田合戦で活躍した日光山の弁覚〜源実朝の護持僧〜 |
1213年(建暦3年)5月21日 |
近年にはない大地震が発生。 家屋が倒壊し、山が崩れ、地が裂けたのだという。 |
1213年(建暦3年) |
「山はさけうみはあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」 この歌は5月に起こった大地震の直後に詠まれたものと考えられている。 |
1213年(建暦3年)9月 |
北条時政の謀略により討死した畠山重忠の末子重慶が日光山(輪王寺・二荒山神社)で長沼宗政に誅殺される。 重慶は畠山重忠の乱後、武蔵国の慈光寺の別当を勤めていたのだという。 |
謀反を企てて誅殺された畠山重忠の子・重慶 |
1213年(建保元年)11月23日 |
藤原定家から『万葉集』の一部を贈られる。 家集『金槐和歌集』が編纂されたのがこの頃といわれている。 |
1214年(建保2年)正月28日 |
二所詣へ出発。 正月29日に箱根権現と三嶋社、2月1日に伊豆山権現を参拝。 |
1214年(建保2年)2月4日 |
壽福寺の栄西が、実朝に『喫茶養生記』を献上した。 |
喫茶養生記 |
栄西禅師坐像 |
1214年(建保2年)5月7日 |
4月に比叡山衆徒によって焼かれた園城寺の復興を決定。 |
源氏ゆかりの園城寺(三井寺)と源実朝 |
1214年(建保2年)7月7日 |
実朝創建の大慈寺の法要。 大慈寺は、後鳥羽上皇への恩と父源頼朝の徳をたたえるために建設を開始した寺院。 10月15日には栄西が舎利会を行っている。 大慈寺建立縁起と頼朝の死因 |
1215年(建保3年)7月6日 |
伊豆国で北条時政が死去。 |
1215年(建保3年)7月6日 |
坊門信清(正室の坊門姫の父)から6月2日に行われた「仙洞の哥合せ(衆議の判)一巻」が贈られる。 これは後鳥羽上皇の指示によるもの。 |
1216年(建保4年)1月15日 |
江の島が陸続きに。 |
1216年(建保4年)2月19日 |
東寺の宝蔵に納められていた仏舎利が盗まれ、盗人を捜索を命ずる宣旨が届く。 |
1216年(建保4年)6月8日 |
東大寺の大仏鋳造と大仏殿の建設に尽力した宋の工人陳和卿と対面。 |
1216年(建保4年)閏6月20日 |
園城寺の公胤が入滅。 |
1216年(建保4年)9月20日 |
北条義時の使いとして御所を訪れた大江広元に昇進について諫められる。 昇進を重ねた源実朝 |
1216年(建保4年)11月24日 |
宋へ渡航するため、陳和卿に唐船の建造を命ずる。 翌年完成したが進水はできなかった。 |
1217年(建保5年)3月10日 |
正室の坊門姫と同じ牛車に乗って永福寺の花見に出かける。 |
1217年(建保5年)5月11日 |
鶴岡八幡宮の別当・定暁が入滅。 |
1217年(建保5年)5月12日 |
訴訟に口出しをする壽福寺の退耕行勇を諫める。 源実朝と壽福寺の退耕行勇 |
1217年(建保5年)6月20日 |
園城寺で修行していた公暁が鎌倉に戻り、鶴岡八幡宮の別当に補任される。 |
1217年(建保5年)10月11日 |
公暁が鶴岡八幡宮の上宮で一千日間の参籠をはじめる。 |
1218年(建保6年)2月〜4月 |
次期将軍に後鳥羽上皇の皇子を迎えるため北条政子が上洛し藤原兼子と会談。 |
北条政子の上洛と将軍継嗣問題 |
1219年(建保7年)1月27日 |
鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀式で甥の公暁に暗殺される(享年28)。 遺体は勝長寿院に葬られたが、首は公暁が持ち去って行方がわからなかったため、首の代わりに髪の毛が葬られたのだという。 翌日、正室の坊門姫は壽福寺で出家。 |
鶴岡八幡宮大石段と源実朝暗殺〜その時、北条義時は現場にいた!〜 |
壽福寺裏山の「やぐら」内にある五輪塔は、実朝ものと伝えられている。 |
公暁が持ち去った実朝の首は、三浦義村の家臣・武常晴が拾い上げ、波多野の地に葬ったのだと伝えれている。 源実朝の首と七騎谷の伝説 |
金剛寺は、実朝の御首(みしるし)を埋葬したことに始まる。 |
波多野で営まれた実朝の供養には、退耕行勇が招かれ、木製五輪塔が建てられたのだという(鎌倉国宝館に寄託)。 |
大通寺は、1222年(貞応元年)、実朝の菩提を弔うために正室の本覚尼(坊門姫・西八条禅尼)が創建した寺。 坊門姫は、実朝が暗殺されると、鎌倉の壽福寺で出家して京に戻ったのだという。 |
高野山の金剛三昧院は、北条政子の発願で頼朝と実朝の供養のために建てられた寺院。 |
高野山の西室院にある源氏三代五輪塔は、実朝の異母兄貞暁が頼朝・頼家・実朝の菩提を弔うために建てたものと伝えられている。 |
四本龍寺(輪王寺)の三重塔は、実朝の菩提のために日光山二十四世の弁覚が創建したのだという。 |
乳母制度が生んだ権力闘争〜頼朝・頼家・実朝の乳母〜 頼朝の子・孫:断絶した血筋 失敗だった?頼朝の鎌倉殿継承構想 |
甲斐善光寺の「木造源実朝坐像」は、信濃善光寺にあったもので、実朝像としては国内最古の彫像。 |
大銀杏 (鶴岡八幡宮) |
ビャクシン (鶴岡八幡宮) |
舎利殿 (円覚寺) |
江島霊迹建寺の碑 (江の島) |
走り湯 (熱海) |
湯前神社 (熱海) |
実朝祭 (8月9日) |
文墨祭 (10月28日) |
毎年3月に鶴岡八幡宮で行なわれる献詠披講式では、実朝の一首と公募による歌が披講される。 |
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