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蹴鞠(けまり・しゅうきく)は、飛鳥時代から奈良時代にかけて、中国から日本に伝えられたとされる球戯。 鹿の皮で作られた鞠を蹴り続け、その回数を追及するもので、平安貴族の間で流行。 蹴りやすい鞠を相手に渡すという心の構えと技術を必要とするもので、柳・桜・松・楓で囲まれた場で8人の鞠足(まりあし・演技者)によって行われていた。 藤原道長は、「鞠を落とさず蹴り続けることを目的とする」と述べている。 |
京都御所の小御所と御学問所の間には蹴鞠の庭が設けられている。 |
清少納言は『枕草子』に 「あそびわざは、こゆみ、ご。さまあしけれど、まりもをかし」 (遊戯の技は、小弓、碁。上品ではないけど鞠蹴りもおもしろい) と記している。 紫式部は『源氏物語』~若菜上の巻~で、 桜が満開の光源氏の六条院で夕霧や柏木らが蹴鞠を楽しむ様子を描いている。 |
鎌倉時代になると武士階級でも盛んに蹴鞠が行われるようになる。 『吾妻鏡』によると、二代将軍・源頼家は蹴鞠を好み政務を疎かにしたとされている。 ただ、頼家の時代の朝廷の権力者は蹴鞠に秀でた後鳥羽上皇だったことから、蹴鞠は政治の上で重要な藝だったといえる。 二代執権・北条義時の弟・時房は、上洛した際に子の時村とともに後鳥羽上皇の蹴鞠の会に参加している。 |
蹴鞠に熱中した鎌倉殿:源頼家 北条義時追討の院宣 |
水無瀬神宮は、後鳥羽上皇の水無瀬離宮(水無瀬殿)の跡地に建てられた神社。 頼家が亡くなった後のことだが、1208年(承元2年)に水無瀬離宮で催された蹴鞠の会で後鳥羽上皇は、2000回以上という記録をつくって「この道の長者」と称されるようになったのだとか。 |
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