|
水無瀬神宮(みなせじんぐう)は、後鳥羽上皇がたびたび行幸したという水無瀬離宮(水無瀬殿)の跡地に建てられた神社。 1221年(承久3年)、後鳥羽上皇は北条義時打倒の兵乱を起こして隠岐に流され、1239年(延応元年)2月22日、配流地で崩御(承久の乱)。 翌1240年(仁治元年)、後鳥羽上皇の遺勅(遺言)を託されていた藤原信成と親成の親子が水無瀬の地に御影堂を建立して後鳥羽上皇を祀った。 これが水無瀬神宮の始まりとなる。 1494年(明応3年)、後土御門天皇によって隠岐から後鳥羽上皇の神霊が迎えられ、水無瀬宮の神号を賜った。 明治の神仏分離により水無瀬御影堂は水無瀬宮に改称。 このとき、承久の乱で後鳥羽上皇とともに配流となった土御門上皇と順徳上皇が合祀されている。 後鳥羽上皇が火葬された隠岐には、上皇を祀る祠殿が建てられていたが、1873年(明治6年)、明治天皇の命により水無瀬宮に合祀されたのだという。 1939年(昭和14年)には水無瀬神宮と改称された。 |
後鳥羽上皇の水無瀬殿は、1200年(正治2年)に内大臣源通親の水無瀬別業を譲り受けたもの(下御所)。 1216年(建保4年)に洪水で壊れたため、翌年、山上に新離宮(上御所)を築いたのだという。 1208年(承元2年)に水無瀬離宮で催された蹴鞠の会で後鳥羽上皇は、2000回以上という記録をつくって「この道の長者」と称されるようになったのだとか。 |
隠岐で火葬された後鳥羽上皇の遺骨は、上皇がお気に入りだった西蓮(藤原能茂)が水無瀬殿に移し、大原の勝林院に納骨。 その後、後鳥羽上皇の後宮・修明門院(藤原重子)の計らいで水無瀬殿の一部を移して法華堂が建立され納骨されたのだという。 |
承久の乱に敗れた後鳥羽上皇が隠岐に流される前に絵師の藤原信実描かせた肖像画。 (国宝 京都国立博物館寄託) |
(ごとばてんのうしんかんおていんおきぶみ) |
後鳥羽上皇が崩御の13日前に藤原親成に書き残した直筆の遺言。 (国宝 京都国立博物館寄託)。 水無瀬神宮の前身となる水無瀬御影堂は、この遺言に基づいて建立されたのだという。 島本町立歴史文化資料館で複製を見ることができる。 |
承久の乱は、後鳥羽上皇が起こした打倒北条義時の兵乱。 後鳥羽上皇方の敗北により、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇が流され、後鳥羽上皇に加担した公家・武士などの所領は没収。 朝廷の動きや西国御家人を監視するため六波羅探題が設置された。 |
大阪府三島郡島本町広瀬3−10−24 阪急京都本線 「水無瀬駅 」徒歩10分 JR京都線 「島本駅 」徒歩10分 JR京都線 「山崎駅 」徒歩15分 |
大きい地図を見るには・・・ 右上のフルスクリーンをクリック。 |
|