中世歴史めぐりyoritomo-japan


紫式部

2024年の大河ドラマ
「光る君へ」



編集:yoritomo-japan.com




紫式部像
リンクボタン紫式部像
(京都:宇治橋)


 2024年(令和6年)のNHK大河ドラマは「光る君へ」。

 主人公は、紫式部(むらさきしきぶ)。


 紫式部は、平安時代中期の作家・歌人・官僚。

 父は中流貴族で漢学や和歌に秀でた藤原為時

 母は藤原為信の娘とされるが、紫式部や弟の藤原惟規が幼い頃に亡くなってしまったらしい。


 生没年は不明だが・・・

 生年には、970年(天禄元年)や973年(天延元年)などの説がある。

 没年には、1014年(長和3年)という説や1019年(寛仁3年)という説、最長では1031年(長元4年)という説がある。

 本名も不明だが「香子」という説がある。


 996年(長徳2年)、越前守に叙任された父の藤原為時に同行して越前国へ下向。

 この頃、を亡くし、同時期に妹を亡くした平維将の娘(筑紫の君)を姉君と呼んでいたらしい。


 998年(長徳4年)頃、藤原宣孝と結婚し、一女・賢子(大弐三位)をもうけるが、わずか3年後の1001(長保3年)4月25日、宣孝は疫病のため卒去。

 その現実を忘れるために物語を書き始めるが、それが評判となり、1005年(寛弘2年)頃、藤原道長の要請で一条天皇の中宮彰子道長の娘)に仕えるようになる。

 宮仕えをしながら完成させたのが五十四帖からなる『源氏物語』

 宮中へ上がった時の様子を中心に書いたのが『紫式部日記』。


 宮仕え時代の同僚には、赤染衛門和泉式部・伊勢大輔がいた。

 『紫式部日記』には、源陟子(宮の宣旨)・源簾子(大納言の君)・藤原豊子(宰相の君)・小少将の君源簾子の妹)・橘良芸子(宮の内侍)・橘隆子(左衛門の内侍)・馬中将の君(藤原相尹の娘)などの女房も登場する。


 『枕草子』の作者・清少納言藤原定子のもとで宮仕えしていたが、紫式部らが出仕した頃には宮中を去っている。

 直接の接点はないものの『紫式部日記』には清少納言についての記述がある。

 清少納言は自分の才能を表に出すタイプだったが、紫式部は並外れた才能を隠し、凡庸な女房であることを意識していたのだという。


 ドラマのタイトルの「光る君」は・・・

 『源氏物語』の主人公・光源氏

 ドラマでは、光源氏のモデルの一人とされる藤原道長

 紫式部は「まひろ」という名で登場。




紫式部年表



「唐衣裳」(十二単)~平安時代の宮中に仕える女房の装束~


平安貴族の位階と袍(上着)の色





~古典の日~

 『源氏物語』が文献上で初めて登場するのが『紫式部日記』。

 1008年(寛弘5年)11月1日、藤原公任が紫式部を「若紫」と呼ぶ記事。

 そのことから、千年後の2008年(平成20年)、11月1日は「古典の日」に制定されている。



リンクボタン藤原障子の皇子出産と紫式部と源氏物語~『紫式部日記』~

リンクボタン藤原公任と紫式部~源氏物語の初登場と古典の日:紫式部日記~


藤原公任の和漢朗詠集が国宝に。





~中宮彰子の御草子作り~

 『紫式部日記』によると、1008年(寛弘5年)11月、出産のため土御門邸に里下がりしていた藤原彰子は、内裏(一条院)に還御するまでの間に草子作りを始めた。

 この草子は、『源氏物語』と推測されている。



リンクボタン御草子作り~藤原彰子のもとで清書された『源氏物語』:紫式部日記~

リンクボタン紫式部の歌~源氏物語について交わした藤原道長との贈答歌~




~曾祖父・藤原兼輔の歌~

 紫式部は『源氏物語』の中に、曾祖父・藤原兼輔が娘の桑子を案じて詠んだ

 「人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に まどひぬるかな」

 を多く引用している。

 桑子が光源氏の母・桐壺更衣のモデルともいわれる。



リンクボタン藤原兼輔の歌~紫式部が『源氏物語』に引用した歌~





源氏物語石像
リンクボタン光源氏と紫の上
(みやこめっせ:源氏物語石像)

 2008年(平成20年)の「源氏物語千年紀」に建てられた光源氏紫の上の石像。





~大斎院サロン~

 皇后・定子や中宮・彰子の後宮サロンと並びたっていたのが選子内親王の大斎院サロン。

 清少納言は『枕草子』に理想的な宮仕え先として、内裏・后宮・斎院御所(賀茂斎院)を挙げている。

 紫式部は『紫式部日記』で、弟の藤原惟規の恋人・斎院中将の手紙を読んで批判もしているが・・・

 選子内親王の人柄や、斎院御所が風雅で神々しさのあることは認めている。 





~源倫子からの贈り物~


紫式部
リンクボタン菊の着せ綿

 仕えていた藤原彰子の出産が間近となった1008年(寛弘5年)9月9日、藤原道長の正妻・源倫子から「菊の着せ綿」を贈られた。



リンクボタン紫式部は「源倫子にも仕えていた」という説





~漢詩の才能~

 『紫式部日記』によると・・・

 紫式部は子どもの頃、弟の藤原惟規と一緒に父の藤原為時から漢詩を学んでいたが・・・

 惟規は理解するのが遅く紫式部は早かったことから、為時は娘が男でないことを嘆いていたのだという。



紫きぶ七橋・河濯橋
リンクボタン中宮・彰子に新楽府を進講する紫式部


 幼い頃からの漢詩の才能は、一条天皇に評価され、中宮・彰子には『白氏文集』(白居易の詩文集)を講義している。





~紫式部の物語論~

 紫式部は『源氏物語』~蛍の巻~に光源氏の言葉として、

 「日本紀などは、ただ、片そばぞかし。これらにこそ、道々しく、くはしき事はあらめ」

 (『日本紀』などは、ほんの一部分にすぎない歴史で、物語にこそ道理にかなった詳しいことが書かれている)

 と語っている。

 赤染衛門が作者といわれる『栄花物語』は、「紫式部の物語論」の影響を強く受けているらしい。



リンクボタン紫式部の物語論~『源氏物語』~蛍の巻~





源氏物語



藤原道長


藤原彰子



紫式部・源氏物語・光源氏ゆかりの地めぐり~光る君へ~




時代祭
リンクボタン清少納言と紫式部
(時代祭)









~生まれ育った紫野~


雲林院
リンクボタン雲林院
大徳寺真珠庵
リンクボタン真珠庵


 紫式部は紫野で生まれ育ったといわれ、紫の名は紫野に由来するとも・・・

 雲林院は、『源氏物語』第十帖の「賢木」に登場する。

 かつては、雲林院の敷地だった大徳寺の塔頭真珠庵には「紫式部産湯の井」がある。





~邸宅跡~


京都:蘆山寺
リンクボタン廬山寺
蘆山寺・紫式部像
リンクボタン紫式部像


 曾祖父の藤原兼輔が鴨川の西に建てた旧家に住んで『源氏物語』を執筆したという紫式部。

 蘆山寺は、紫式部の邸跡とされている。 





~越前下向~


 996年(長徳2年)、紫式部は越前守となった父藤原為時に同行して越前国へ下向。

 逢坂の関を越えて打出浜から船出した。



白鬚神社
リンクボタン白鬚神社
(高島市)
白鬚神社紫式部歌碑
リンクボタン紫式部歌碑
(白鬚神社)


 湖西を通って塩津浜へと向かう途中で詠んだのが・・・

 「三尾の海に 網引く民の てまもなく 立居につけて 都恋しも」

 白鬚神社の境内に歌碑が建てられている。



塩津浜
リンクボタン塩津浜
(長浜市)
塩津神社
リンクボタン塩津神社
(長浜市)


 塩津浜に上陸した紫式部は、塩津神社で旅の安全を祈願。

 塩津山を越えて敦賀に入り、敦賀から木ノ芽峠を越えて越前国府がある武生へ向かった。



紫式部公園
リンクボタン紫式部公園
(越前市)
紫式部像
リンクボタン紫式部像
(紫式部公園)


 紫式部公園は 紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された公園で、平安朝式庭園を再現。

 園内には、十二単衣をまとった金色の紫式部像が置かれている。

 紫式部は、娘時代の約2年間を父為時の任国・越前で過ごしたのだという。

 為時が越前守に任命されたのは、当時、敦賀に滞在していた朱仁聡ら宋の商人と交渉させるためともいわれる。



リンクボタン一条天皇に漢詩を奏上して越前守となった藤原為時

リンクボタン宋人と詩を唱和した紫式部の父・藤原為時



越前下向:紫式部が通った道


紫きぶ七橋





~越前から帰京~


 997年(長徳3年)末から翌年春にかけて帰京。

 帰りは湖東を通って打出浜に上陸したらしい。



礒崎神社
リンクボタン礒崎神社
(米原市)
伊吹山
リンクボタン伊吹山
(米原市)


 「磯がくれ おなじ心に たづぞ鳴く なが思じ出づる 人やたれぞも」

 「磯」は琵琶湖東岸の礒崎神社が鎮座する地のこと。

 紫式部は帰京する際、伊吹山も詠んでいる。

 「名に高き 越の白山 ゆきなれて 伊吹の嶽を なにとこそ見ね」



紫式部歌碑
リンクボタン紫式部歌碑
(近江八幡市)
紫式部歌碑
リンクボタン紫式部歌碑
(野洲市)


 「おいつしま 守りの神や いますらん 波もさわがぬ わらわえの浦」

 この歌は沖島を望んで詠んだとされる歌。

 近江八幡市の百々神社境内と、野洲市のあやめ浜に歌碑が建てられている。

 沖島は、神の島と呼ばれた琵琶湖最大の島。 




琵琶湖で紫式部・源氏物語





~石山寺で書き始めた『源氏物語』~


石山寺
リンクボタン石山寺
紫式部像
リンクボタン源氏の間


 1004年(寛弘元年)8月15日、石山寺に参籠中だった紫式部は、中秋の名月が琵琶湖に映る美しい景色を見て『源氏物語』を書き始めたのだという。

 まずは、光源氏のモデルの一人・在原行平の須磨での日々を重ねあわせながら、「須磨」・「明石」の両巻から・・・

 源氏の間は、石山寺本堂の相の間にある部屋。



源氏物語~須磨・明石~





~女流文学者たちの初瀬詣~


長谷寺
リンクボタン大和国長谷寺
(桜井市)
玉鬘神社
リンクボタン玉鬘神社
(桜井市)



 大和国長谷寺の参詣は「初瀬詣」と呼ばれ、平安時代に流行。

 藤原道長をはじめ、紫式部・清少納言赤染衛門藤原道綱の母菅原孝標の娘などが参詣している。

 玉鬘神社は、大和国長谷寺の地に2018年(平成30年)に創祀された神社。

 『源氏物語』の登場人物・玉鬘とともに、その母・夕顔とその侍女・右近が祀られている。



リンクボタン清水詣・石山詣・初瀬詣~平安貴族が信仰した清水寺・石山寺・長谷寺~





~先祖ゆかりの寺~


勧修寺
リンクボタン勧修寺
宮道列子の墓
リンクボタン宮道列子の墓



 勧修寺は、醍醐天皇が母藤原胤子の菩提を弔うために建てた寺。

 胤子の父藤原高藤と母宮道列子は紫式部の先祖。

 光源氏明石の君の恋の話は、高藤と列子の恋の話がモデルであるとされる。



藤原高藤と宮道列子の恋の話


藤原高藤と小野篁と百鬼夜行





~墓所・供養塔~


紫式部の墓
リンクボタン紫式部の墓
紫式部供養塔
リンクボタン紫式部供養塔
(石山寺)


 紫式部の没年は不明だが、その晩年は雲林院百毫院で過ごしたのだという。

 雲林院の近くには紫式部の墓がある。

 隣には小野篁の墓も。

 『源氏物語』を書き始めたという石山寺三重宝篋印塔は、紫式部の供養塔と伝えられている。



紫式部供養塔
リンクボタン紫式部供養塔
(千本ゑんま堂)
紫式部供養塔
リンクボタン紫式部供養塔
(慈眼堂)


 小野篁のゑんま堂を始まりとする千本ゑんま堂には、紫式部の子孫といわれる円阿が建てた供養塔がある。

 慈眼堂は、徳川家康の側近で比叡山の座主を勤めた天海の廟所。

 歴代天台座主の墓所には、徳川家康や清少納言和泉式部・紫式部の供養塔も建てられている。


リンクボタン紫式部の没年と源氏物語~准太上天皇となった光源氏と敦明親王~





~地獄に堕ちたという紫式部~

 紫式部が書いた『源氏物語』は架空の恋愛物語。

 仏教では架空の物語を作るということは「嘘をついてはいけない」という五戒の一つ「不妄語戒」に当たるのだとか。

 そのため、平安末期から鎌倉初期には、紫式部を供養する源氏供養が始められたのだという。


リンクボタン源氏供養~地獄に堕ちた紫式部の供養~





~紫式部の歌~
(紫式部集)

 紫式部は『源氏物語』に800首近い和歌を織り込み、自撰歌集の『紫式部集』には、およそ120首が収められている。



紫式部の歌


紫式部の歌碑





~父為時への手紙と歌~

 紫式部が越後にいる父為時に書いた手紙に娘の賢子が書き付けた歌と、紫式部が越後にいる父為時を案じて詠んだ歌。


リンクボタン大弐三位の歌~亡き母紫式部の手紙に書き付けた歌~

リンクボタン紫式部の歌~越後国に赴任している父為時を案じた歌~





~石山寺の大河ドラマ館~


光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館


 「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」は、石山寺境内の明王院に設置。



2024年2月23日オープン
光る君へ 越前 大河ドラマ館





紫式部の京都 平安宮~源氏物語ゆかりの地~


琵琶湖で紫式部・源氏物語 源氏物語~須磨・明石~


宇治十帖~紫式部『源氏物語』~ 源融・藤原実方ゆかりの陸奥国




紫式部・源氏物語
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