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『紫式部日記』によると・・・ 1008年(寛弘5年)7月16日、出産のため土御門邸に里下がりしていた中宮藤原彰子は、9月11日、無事に皇子を出産。 11月1日の「五十日の祝い」が終わり、内裏(一条院)への還御が近づくと、一条天皇への手土産にするため、草子(冊子)作りを始めた。 お産以来、ゆっくりする暇もない中でのことだったが・・・ 紫式部は、夜が明けると真っ先に彰子のもとに伺候し、色とりどりの紙をそろえて、それに物語の原本を添えて書写を依頼し、一方で書写されたものを綴じるという日々だったらしい。 この物語は紫式部が書いた光る君の物語(『源氏物語』)のことと推測されている。 藤原道長は彰子に「子を産んだ女性が寒いのに・・・」と申し上げながらも、薄くすかれた和紙や筆、墨などを提供し、ついには硯までも持ってきたのだという。 また、紫式部は、自宅へ取りにやらせた物語の原本を部屋に隠しておいたのだが、彰子のところへ行っている間に道長が見つけて彰子の妹妍子にあげてしまったのだとか。 この物語の原本は、書写させたものとは別のもので、書き直しが必要なものだったらしく、紫式部はその評判を気にしていたらしい。 |
藤原障子の皇子出産と紫式部と源氏物語~『紫式部日記』~) 藤原公任と紫式部~源氏物語の初登場と古典の日:紫式部日記~ 紫式部の歌~源氏物語について交わした藤原道長との贈答歌~ |
様々な説があるが・・・ 光源氏の父・桐壺帝のモデルは一条天皇、母・桐壺更衣のモデルは藤原定子とも・・・ 光源氏は敦康親王・・・ そして、光源氏の最愛の妻・紫の上は藤原彰子がモデルとも。 みやこめっせの源氏物語石像は、2008年(平成20年)の「源氏物語千年紀」に建てられたもの。 |
藤原彰子は敦康親王が東宮になることを望んでいた! |
紫式部が下向した越前は和紙の産地。 越前和紙の歴史は古く、現存する最古の越前和紙は正倉院に残されている730年(天平2年)の「越前国大税帳」。 日本画の横山大観などの作家に愛用され、日本初の全国通用紙幣「太政官札」には越前和紙が使用された。 もしかすると、道長が差し入れた和紙は越前和紙だったかもしれない。 |
岡太神社は、紙祖神の川上御前を祀る古社。 |
紫式部下向行列 |
越前和紙の洞窟 |
「紫ゆかりの館」に置かれている紫式部下向行列の人形・馬・調度などは越前和紙で作られている。 「光る君へ 越前 大河ドラマ館」が設置されている「しきぶきぶんミュージアム」には越前和紙の洞窟が設けられている。 |
中宮・彰子に新楽府を進講する紫式部 |
11月17日、土御門邸から内裏(一条院)へ還御した中宮彰子は、一条天皇に『源氏物語』を献上。 『紫式部日記』によると・・・ 一条天皇は「源氏物語の作者は『日本紀』を読んでいるにちがいない。漢学の学識があるようだ」と評している。 一条天皇の女房・橘隆子からは「日本紀の御局」というあだ名を付けられていたのだとか。 漢学の学識を高くかわれていた紫式部は、白居易の新楽府(漢詩)を中宮彰子に講義している。 |
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