紫式部「光る君へ」


藤原彰子の懐妊・皇子出産と
紫式部と源氏物語
『紫式部日記』


編集:yoritomo-japan.com








~土御門殿に里下がり~

 1008年(寛弘5年)初春、一条天皇の中宮・藤原彰子の懐妊が判明。

 この前年、藤原道長は御嶽詣を行い、彰子の懐妊を祈願したのだといわれている。

 人々は「金峯山の御霊験」と噂したのだとか・・・

 そして、7月16日、彰子はお産のため土御門殿へ里下がり。

 『紫式部日記』によると・・・

 秋が深まってきた土御門殿では、池のほとりの木々の梢や遣水のほとりの草むらが色づき、彰子の安産を祈る僧の読経の声が響き渡り・・・

 夜になると涼しい風のそよめきに遣水のせせらぎの音が読経の声と溶け合って聞こえていたのだという。


 懐妊した彰子は4月13日に土御門殿へ里下がりしているが、一度、内裏に戻り、7月になって再び里下がりしている。



藤原道長の御嶽詣~彰子の男児出産を願っての金峯山参詣か?~




京都御苑:土御門第跡
リンクボタン土御門殿跡
(京都御苑)

 土御門殿は、彰子の父・藤原道長の邸宅。

 彰子に仕えていた紫式部は、寝殿と東の対の屋を結ぶ渡殿の東側の戸口近くに部屋を与えられていたらしい。





~法華三十講の歌~

 1008年(寛弘5年)4月から5月にかけて、土御門邸では藤原彰子の安産祈願のための法華三十講が行われた。

 紫式部と同じく彰子に仕えていた大納言の君小少将の君は、それぞれの思いを和歌にのせている。



リンクボタン紫式部の歌~妙なりや・・・5月5日の法華経第5巻~

リンクボタン紫式部の歌~紫式部と大納言の君の篝火の歌~

リンクボタン紫式部の歌~菖蒲の歌:小少将の君と紫式部の贈答歌~



藤原彰子の懐妊と藤原道長の法華三十講と紫式部





~五壇の御修法~

 1008年(寛弘5年)7月、藤原彰子がお産のため里下がりすると土御門邸では安産祈願のための「五段の御修法」が行われた。

 「五段の御修法」とは、五大明王を東・南・西・北・中央の五壇に祭って行う密教の修法。

 『紫式部日記』によると、観音院の僧正・勝算が不動明王を担当。

 法性寺の座主や浄土寺の僧都の様子も描かれている。

 藤原道綱の次男・斉祇が大威徳明王を礼拝する様子も。



観音院は『源氏物語』ゆかりの大雲寺にあった。

法性寺は藤原氏の氏寺として栄えていた。



彰子の里下がりと安産祈願の五壇の御修法





~道長との女郎花の歌の贈答~

 紫式部が部屋から外を眺めていると、うっすらと霧が立ちこめている朝の草木の露もまだ落ちない時分に道長は庭に出て遣水の手入れをさせている。

 そして、橋の南に咲いている盛りの「をみなえし」(女郎花)を一枝折り、几帳の上から寝起き顔の紫式部に見せて即興で歌を詠ませる・・・


 「女郎花 さかりの色を 見るからに 露のわきける身こそ 知らるれ」(紫式部)

 (朝露が降った女郎花の美しい色を見ると、露に分け隔てされて美しく見えない我が身を思い知られます)

 「白露は わきてもおかじ 女郎花 こころからにや 色の染むらむ」(道長返歌)。

 (白露は花を分け隔てして降るわけではなく、女郎花は自分から美しい色に染まって咲いているのでしょう)



(参考)

リンクボタン渡殿の紫式部の局の戸をたたく藤原道長(紫きぶ七橋)










藤原彰子



~皇子誕生~

 9月11日正午、彰子は無事に皇子を出産(のちの後一条天皇)。

 「御湯殿の儀」で宰相の君(藤原豊子)が湯殿役、大納言の君(源廉子)が介添役を務めた。


 土御門殿は、安産の上に皇子が誕生して二重の喜びに包まれる一方で、これから続く儀式の準備のために人々が忙しく動き回り・・・

 9月15日には、道長が奉仕する誕生祝の宴(産養の儀)が執り行われている。

 10月16日には一条天皇土御門殿へ行幸。

 11月1日には「五十日の祝い」があり、11月17日に彰子は還御した。



藤原彰子の出産~敦成親王誕生:紫式部日記~

敦成親王誕生5日目の御産養~紫式部日記~

一条天皇の土御門殿行幸、敦成親王と対面~紫式部日記~

敦成親王誕生の五十日の祝い~源氏物語初登場の日:紫式部日記~




紫式部
リンクボタン菊の着せ綿

 彰子の出産が間近となった9月9日、紫式部は道長の正妻・源倫子から「菊の着せ綿」を贈られている。



紫きぶ七橋・千代鶴橋
リンクボタン新造の竜頭鷁首の舟を下見する道長(越前市・紫きぶ七橋)


 一条天皇土御門殿への行幸の当日、道長は新造の二艘の舟を池辺に漕ぎ寄せて検分している。



一条天皇の土御門殿行幸、敦成親王と対面~紫式部日記~





~御産養の儀~

 「御産養」(うぶやしない)は、生後三日、五日、七日、九日目の夜に行われる祝宴。

 土御門殿では、9月13日に中宮職、9月15日に道長、9月17日に朝廷、9月19日に藤原頼通の主催で行われている。



(参考)

リンクボタン御産養の夜、中宮(彰子)の前に対座し静かに御簾をあげる紫式部(越前市・紫きぶ七橋)

リンクボタン御産養の盛儀を覗き見て感激する夜居の僧(越前市・紫きぶ七橋)


敦成親王誕生5日目の御産養~紫式部日記~





~五十日の祝儀~

 「五十日の祝い」は、生誕50日目の夜に行わる儀式。



(参考)

リンクボタン道長から賀の歌を求められる紫式部(越前市・紫きぶ七橋)

リンクボタン御五十日の祝いの宵、若宮に餅を供する道長(越前市・紫きぶ七橋)

リンクボタン御五十日祝いに若宮を抱く中宮と祝膳を供する女房(越前市・紫きぶ七橋)


敦成親王誕生の五十日の祝い~源氏物語初登場の日:紫式部日記~





~草子作り~

 彰子は、土御門殿に里下がりしている間、草子作りを命じている。

 紫式部が中心となって動き、道長から上質の紙や筆・墨などが提供されていることから、草子は『源氏物語』と推測されている。


「草子」は紙を折り重ねて綴じた書物。



リンクボタン御草子作り~藤原彰子のもとで清書された『源氏物語』:紫式部日記~

リンクボタン紫式部の歌~源氏物語について交わした藤原道長との贈答歌~





~源氏物語が文献上で初登場!~


あなかしここのわたりに若紫やさぶらふ


 『源氏物語』が文献上で初めて登場するは、「五十日の祝い」が行われた1008年(寛弘5年)11月1日。

 『紫式部日記』の藤原公任紫式部を「若紫」と呼ぶ記事。

 「若紫」とは『源氏物語』の登場人物・紫の上のこと。

 そのことから、千年後の2008年(平成20年)、11月1日は「古典の日」に制定されている。



リンクボタン藤原公任と紫式部~源氏物語の初登場と古典の日:紫式部日記~




源氏物語石像
リンクボタン源氏物語石像
(みやこめっせ:源氏物語石像)

 源氏物語石像は、2008年(平成20年)の「源氏物語千年紀」に建てられた光源氏紫の上の石像。










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紫式部の京都 平安宮~源氏物語ゆかりの地~


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宇治十帖~紫式部『源氏物語』~ 源融・藤原実方ゆかりの陸奥国


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