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すきものと 名にし立てれば 見る人の をらで過ぐるは あらじとぞ思ふ |
「お前は好色者と評判がたっているので、見た者は口説かないでいられないと思うだろう」 中宮・藤原彰子の御前に置かれていた『源氏物語』を藤原道長が見て、いつものように冗談を言い出した際に、梅の実の下に敷かれている紙に書いた歌。 |
人にまだ をられぬものを 誰かこの すきものぞとは 口ならしけむ |
「誰にも口説かれたことがないのに、誰がわたしのことを好色者だと言いふらしたのでしょうか?心外です」 この道長と紫式部の贈答歌については、『紫式部日記』にも同じ記述がある。 1008年(寛弘5年)、土御門邸での出来事らしい。 |
『紫式部日記』によると・・・ 1008年(寛弘5年)9月11日、中宮藤原彰子は、土御門殿(土御門邸)で一条天皇の第二皇子(のちの後一条天皇)を出産。 内裏(一条院)への還御が近づくと紫式部に草子作りを始めた。 この草子は『源氏物語』のことと考えられている。 藤原道長が紙・筆・墨などを提供したことや、紫式部が隠しておいた原本を次女の妍子にあげてしまったことも記されている。 11月1日、皇子の「五十日の祝い」では、藤原公任が紫式部を「若紫」と呼ぶ記事が載せられている。 この日は、『源氏物語』が文献上で初登場した日として「古典の日』に制定された。 草子作りは「五十日の祝い」後から還御する11月17日の間に行われたらしい。 |
藤原障子の皇子出産と紫式部と源氏物語~『紫式部日記』~) 御草子作り~藤原彰子のもとで清書された『源氏物語』:紫式部日記~ 藤原公任と紫式部~源氏物語の初登場と古典の日:紫式部日記~ |
清書された『源氏物語』は、一条天皇に献上されている。 『紫式部日記』によると・・・ 一条天皇は「源氏物語の作者は『日本紀』を読んでいるにちがいない。漢学の学識があるようだ」と評している。 一条天皇の女房・橘隆子からは「日本紀の御局」というあだ名を付けられていたのだとか。 |
中宮・彰子に新楽府を進講する紫式部 |
漢学の学識を高くかわれていた紫式部は、白居易の新楽府(漢詩)を中宮・藤原彰子に講義している。 |
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