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一説によると、 1004年(寛弘元年)、近江国の石山寺に参籠した紫式部は、琵琶湖に映る美しい中秋の名月を観て・・・ 在原行平の須磨での日々を重ねあわせながら、「須磨」「明石」の両巻から『源氏物語』を書き始めたのだという。 |
石山寺の本堂の「源氏の間」には、『源氏物語』を執筆中の紫式部像が置かれている。 |
須磨(すま) |
政敵の右大臣の娘・朧月夜との密会が露見してしまったことを機に、自ら須磨へ退くことになった光源氏。 春・・・ 左大臣・花散里・藤壺・紫の上に別れを告げて旅立った。 京の人々とは文のやりとりだけという寂しい生活だった。 都から見舞いにやってきたのは、親友の宰相(頭中将)ただ一人。 一年が経った3月、須磨の浦で禊をしていた光源氏は豪風雨に襲われる・・・ |
身はかくてさすらへぬとも 君があたり 去らぬ鏡の かけは離れじ (光源氏) わかれても影だにとまる ものならば 鏡を見ても 慰めてまし (紫の上) 遠くへ流れても心はあなたの側にある鏡のように離れはしません。 お別れしても鏡にあなたの影がとどまってくれれば慰めにもなりますが・・・ |
月見の松 (須磨離宮公園) |
松風村雨堂 |
在原行平は、光源氏のモデルの一人とされる平安時代前期の公卿。 同じく光源氏のモデルとされる在原業平は行平の弟。 行平は須磨に蟄居した際、しばしば裏山で月見をしていたため、後世、裏山は月見山と呼ばれるようになったのだという。 須磨離宮公園は、月見山にあった皇室の別荘・武庫離宮の跡地で、園内には在原行平の月見の松碑が建てられている。 松風村雨堂は、在原行平が都に帰った後、愛人だった松風と村雨が行平の無事を祈って建てた庵の跡。 |
多井畑厄除八幡宮 |
松風村雨の墓 |
多井畑厄除八幡宮は、在原行平や源義経が祈願したという社。 多井畑厄除八幡宮の西には松風と村雨の墓がある。 |
須磨寺の源平の庭には光源氏が植えた「若木の桜跡」が・・・ |
現光寺 |
関守稲荷神社 |
現光寺は源氏寺とも呼ばれ、本堂横には「光源氏月見の松」がある。 関守稲荷神社は、光源氏が須磨に蟄居していた際に巳の日祓をした場所とみなして「巳の日稲荷」とも呼ばれている。 |
上巳の節句~雛まつりは3月上巳の邪気祓いが起源~ 紫式部の歌~法師が陰陽博士を気取っているの見て:上巳祓~ |
筑紫の五節は、新嘗祭の豊明節会で行われる五節の舞の舞姫だった女性。 父の大宰府赴任に同行して筑紫に下向していたが、帰京する際に須磨で蟄居中の光源氏と和歌の贈答をしている。 ただ、筑紫の五節は船上にいたので直接には会っていない。 のちに、豊明節会で五節の舞姫たちを見た光源氏は、筑紫の五節を思い出して和歌を贈っている。 |
五節の舞姫~新嘗祭・大嘗祭で舞った舞姫と貴族~ 五節の舞姫~源氏物語:光源氏と筑紫の五節の贈答歌~ |
明石(あかし) |
連日のように豪風雨が続き、紫の上からは都でも悪天候が続いていると伝えられていた中・・・ 亡き桐壺帝が光源氏の夢枕に現れ、住吉の神の導きに従い須磨を離れるように告げる。 翌朝、明石入道の舟で明石へと移り、明石入道邸で明石の君と出会う・・・ |
明石入道は住吉の神のお告げによって光源氏を迎えに来たのだとか。 |
善楽寺戒光院 |
無量光寺 |
善楽寺戒光院には、明石入道の碑や光源氏の「明石の浜の松」がある。 無量光寺は光源氏の月見の寺。 山門前の蔦の細道は、光源氏が明石の君の岡辺の家へ通うときに使ったという道。 |
朝顔光明寺 |
岩屋神社 |
朝顔光明寺には光源氏月見の池がある。 岩屋神社の門かぶりの松は、光源氏月見の松と呼ばれている。 |
岡之屋形跡歌碑 (神戸市西区) |
如意寺 (神戸市西区) |
岡之屋形跡歌碑は、明石の君の岡辺の家跡に建てられた碑。 『源氏物語』~明石の巻~は、如意寺を再興した願西尼からの情報があって描かれたとう説がある。 |
光源氏は明石の君に恋文を送っているが、「『思ふには』とばかりありけむ」と描かれている。 『思ふには』は、『古今和歌集』の歌の引用。 |
思ふには…我慢できない恋心~古今和歌集の歌と光源氏の恋文~ |
明石の姫君は、光源氏が明石を去った後に明石の君が産んだ娘。 のちに明石の君とともに上京。 紫の上の養女となって入内し、中宮となった。 |
風俗博物館~道長の栄華・彰子に仕えた紫式部・源氏物語~ |
長徳の変後、筑紫国の大宰府に左遷となった藤原伊周だが、勅により播磨国に留まることが許されている。 『栄花物語』によると、 「かたがたに別るる身にも似たるかな明石の須磨も己が浦浦」 と詠んでいる。 ただ、『栄花物語』 の伊周の配流は、光源氏の須磨・明石への蟄居を参考に書かれたらしい。 |
高階貴子の歌~明石にいる息子・藤原伊周を思って詠んだ歌~ 藤原伊周の歌~播磨国左遷と栄花物語「浦々の別」~ |
勧修寺は、醍醐天皇が母・藤原胤子の菩提を弔うために建てた寺。 醍醐天皇の母・胤子は、藤原高藤と宮道列子の娘。 そして、紫式部は高藤と列子の子孫。 『源氏物語』に登場する光源氏と明石の君の恋の話は、身分の低い列子と貴公子・高藤の恋の話がモデルであるとされる。 |
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