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源義経は、1159年(平治元年)に京都で誕生。 父は源義朝、母は常盤御前。 幼名は牛若。 生まれた年に起こった平治の乱で父義朝が平清盛に敗れると、母常盤は三人の子(今若・乙若・牛若)を連れて大和国へ逃れた後、六波羅へ出頭。 今若(全成)と乙若(義円)は出家して、それぞれ醍醐寺と園城寺に入った。 牛若(義経)は11歳のときに鞍馬寺に預けられるが、出家することを嫌い、1174年(承安4年)、16歳で奥州平泉へ下って藤原秀衡を頼る。 1180年(治承4年)、兄の源頼朝が挙兵すると、わずかな郎党を引き連れて頼朝のもとへ参じた。 |
その後、兄範頼とともに頼朝の代官として出陣。 1184年(元暦元年)1月に木曽義仲を滅ぼし、同年2月には一ノ谷で平家を敗走させた。 翌1185年(元暦2年)2月、平家が本拠としていた屋島を奇襲し、3月には壇ノ浦で平家を滅亡させた。 しかし、頼朝に無断で後白河法皇より任官されるなどの問題があって頼朝と対立し、逃亡生活を送ることとなる。 1187年(文治3年)、再び奥州平泉の藤原秀衡を頼るが、秀衡死後の1189年(文治5年)閏4月30日、藤原泰衡に襲撃されて衣川館で自刃。 義経の首は、鎌倉の腰越の浜まで運ばれ、和田義盛と梶原景時による首実検が行われた後、藤沢の白旗神社付近に葬られたのだと伝えられている。 |
1159年(平治元年) |
義経 | 誕生。 平治の乱勃発 父義朝が敗れて母常盤とともに逃亡生活。 |
頼朝 | 平治の乱後、父義朝とともに東国へ向けて都落ち。 |
1160年(平治2年・永暦元年) |
義経 | 父義朝が家臣長田忠致に暗殺される(源義朝墓)。 母常盤が六波羅に出頭。 平清盛に助命され、のちに鞍馬寺に入る。 同母兄の全成(今若)は醍醐寺に、義円(乙若)は園城寺に入って出家。 |
頼朝 | 伊豆国の蛭ヶ小島に流される。 |
源義経に臣従した武蔵坊弁慶 |
1174年(承安4年) |
義経 | 鞍馬寺を出て奥州平泉の藤原秀衡のもとへ。 |
義経元服の地 (滋賀県鏡の宿) |
奥州平泉 (岩手県平泉町) |
源義経の奥州下り〜平治物語〜 『義経記』が描く源義経の奥州下り 源義経と浄瑠璃姫の伝説〜鳳来寺〜 浄瑠璃物語〜源義経と浄瑠璃姫〜 |
安国殿 (東京:増上寺) |
久能山 (静岡市) |
増上寺の安国殿に祀られている徳川家康の守り本尊「黒本尊」は、もとは義経の守り本尊で、奥州へ下る途中で三河国の長者に預けたものなのだとか。 駿河の久能山には「薄墨」と呼ばれる笛を奉納したらしい。 |
1180年(治承4年) |
義経 | 10月21日、挙兵した頼朝と黄瀬川で対面。 |
頼朝 | 4月27日、以仁王の令旨が届く。 8月17日挙兵。 伊豆の目代山木兼隆を討って相模国へ進軍するが、石橋山の戦いで敗れ、安房国へ逃れて再起を図る(9月7日には木曽義仲も挙兵)。 10月6日鎌倉入り。 10月20日富士川の戦いに勝利。 |
以仁王の令旨と源頼朝 以仁王が発した平家打倒の令旨 義経と涙の対面 |
1181年(養和元年) |
義経 | 鶴岡八幡宮若宮の棟上式において、工匠たちに与える馬を引くことに。 たとえ兄弟であっても、義経は頼朝の御家人の一人にすぎないということを認識させた事件。 |
1183年(寿永2年) |
木曽義仲が倶利伽羅峠で平家軍を破って入京。 平家一門都落ち。 しかし、折からの飢饉によって食糧もない中、義仲軍は狼藉の限りをつくしたため、後白河法皇は頼朝を頼ることとなる。 |
頼朝 | 頼朝に東国支配権が認められる(十月宣旨)。 京に義経を派遣。 |
1184年(寿永3年) |
義経 | 1月20日、兄範頼が瀬田から、義経が宇治から義仲を攻め、近江国粟津に敗死させる。 |
頼朝 | 後白河法皇より平家追討の宣旨。 |
宇治川先陣の碑 (宇治市) |
木曽義仲の墓 (大津市) |
1184年(寿永3年) |
義経 | 2月7日、一ノ谷の平家本陣を奇襲して勝利。 |
多井畑厄除八幡宮は、義経が一ノ谷の戦勝を祈願したという社。 |
1184年(元暦元年) |
義経 | 8月6日、朝廷より左衛門少尉検非違使に任命される。 義経の無断任官 |
頼朝 | 勝手な任官に激怒。 一時、義経を平家追討軍から外す。 ただ、近年の研究では、義経が平家追討から外されたのは、京都の治安維持のため後白河法皇らに要請されたためとする説が有力。 |
1184年(元暦元年) |
義経 | 8月10日、伊勢・伊賀で反乱を起こした平信兼の子兼衡・信衡・兼時を誅殺。 三日平氏の乱 |
1184年(元暦元年) |
義経 | 9月14日、河越重頼の娘・郷御前と結婚。 |
頼朝 | 結婚は頼朝の命によるもの。 |
1185年(元暦2年) |
義経 | 2月13日、頼朝より屋島攻撃の命が下る。 17日深夜に暴風雨の中を出航し、18日、徳島に上陸。 平家の背後をついて勝利。 伝説!逆櫓の論争 |
1185年(元暦2年) |
義経 | 3月24日、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼす。 義経と景時の先陣をめぐる争い |
頼朝 | 無断任官や梶原景時からの報告などから、西国武士に対して、義経に従わぬよう命を下す。 義経の不義を訴える景時の書状 |
赤間神宮 (下関市) |
平家一門の墓 (下関市) |
日の丸御旗〜源義経・北畠顕家・武田信玄・徳川家康が掲げた旗〜 |
1185年(元暦2年・文治元年) |
義経 | 壇ノ浦の戦いで捕えた平宗盛を護送して鎌倉に向かうが、鎌倉入りは許されず(5月15日)。 弁明のための「腰越状」を大江広元に送るも回答はなし(5月24日)。 頼朝より、宗盛の護送を命じられ、京へ帰ることとなる(6月9日) 6月21日、宗盛を斬首(宗盛塚)。 この頃、平時忠の娘(蕨姫)を側室とし、叔父の源行家に接近している。 義経の無断任官 |
頼朝 | 梶原景季を入京させ、義経を監視させる。 土佐坊昌俊に義経追討を命じ、義経の六条堀川館を攻めさせるが失敗(10月17日)。 |
腰越状 (鎌倉:満福寺) |
源氏堀川館跡 (六条堀川館跡) |
1185年(文治元年) |
頼朝 | 11月12日、義経の妻郷御前の父河越重頼を誅殺。 |
養寿院 (川越市) |
河越重頼の墓 (川越市) |
1185年(文治元年) |
義経 | 後白河法皇より頼朝追討の宣旨(10月18日) |
頼朝 | 義経追討のため鎌倉を出発(10月29日) |
1185年(文治元年) |
義経 | 11月3日、都落ち。 大物浦より西国へ向かうが、暴風雨により失敗。 四天王寺に宿した後、吉野山へ。 吉野山に逃げこむ前に、住吉大社の神主・津守長盛の許で一夜を過ごしたとも・・・。 |
頼朝 | 頼朝に義経追討の宣旨(11月11日)。 吉野で義経の愛妾静が捕らえられたが、義経の行方は不明(11月17日) |
義経よろい掛け松 (四天王寺) |
住吉大社 |
1186年(文治2年) |
義経 | 3月1日、静が鎌倉に送られた。 7月29日、静は鎌倉で義経の子(男子)を出産するが頼朝の命で由比ヶ浜に捨てられた。 |
頼朝 | 4月8日、鶴岡八幡宮で静に舞を舞わせる。 |
1186年(文治2年) |
義経 | 行方はつかめないままだが、『吾妻鏡』には比叡山や興福寺が匿っていた記録がある。 正妻の郷御前が懐妊。 母の常盤御前が一条河崎観音堂の辺りで捕えられる。 |
頼朝 | 義経捜査を強化。 |
比叡山 |
興福寺 |
源義経を匿った比叡山の僧兵 源義経を匿った興福寺と鎌倉に呼び出された聖弘 |
春日大社には義経が興福寺に残したという「籠手」が伝えられている。 |
1187年(文治3年) |
義経 | 春頃、奥州平泉の藤原秀衡を頼る。 10月29日秀衡没。 |
鹽竈神社 (塩竃市) |
文治の燈籠 (鹽竈神社) |
鹽竈神社は奥州藤原氏が崇敬した陸奥国一宮。 文治の燈籠は、秀衡の三男・忠衡が奥州藤原氏と義経の平穏を祈願して寄進したもの。 |
1188年(文治4年) |
義経 | 秀衡の子泰衡に義経追討の院宣が下る。 |
1189年(文治5年) |
義経 | 閏4月30日、衣川館を泰衡に襲撃されて自害。 |
頼朝 | 奥州征伐。 9月3日、奥州藤原氏滅亡。 |
源義経と言えば、源平合戦の英雄として知られているが、誕生から1180年(治承4年)に頼朝と出会うまでの間についての詳細は不明であり、1183年(寿永2年)に京に派遣されるまで、鎌倉でどのような暮らしをしていたかも不明である。 また、壇ノ浦の戦い後、頼朝との仲がさらに悪くなり、都落ち後、どのような行動をとって奥州へ下ったのかも不明。 義経が歴史上で輝いていたのは、宇治川の戦いから壇ノ浦の戦いまでの約1年の間だけだった。 |
平泉で自刃した義経の首は、腰越の浜での首実検後に捨てられたが、境川を遡り、白旗神社近くに流れ着いたのだという。 2019年(令和元年)10月、白旗神社には義経と弁慶の銅像が建てられた。 |
そして、義経の魂は、幼少期を過ごした鞍馬寺へと戻り、遮那王尊として祀られたのだという。 |
義経の舅河越重頼の居館だった河越館跡の一角にある常楽寺には、2006年(平成18年)に重頼・郷御前・義経の供養塔が建てられた。 |
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