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1180年(治承4年)8月17日、伊豆国で挙兵した源頼朝は、目代の山木兼隆を討つと相模国へ進軍するが、8月24日、石橋山の戦いで大庭景親・伊東祐親らの平氏軍に敗れ、山中へ逃亡。 一時、箱根権現に身を寄せるが、8月28日、真鶴岬から土肥実平が用意した小舟で安房国へ向かった。 翌29日、安房国の平北郡猟島に上陸。 先に到着していた北条時政らが迎えたのだという。 平北郡猟島は、現在の鋸南町竜島辺りと考えられている。 |
湯河原町の城願寺に伝わる七騎落ちの伝説によると、頼朝とともに真鶴岬から安房国へ向けて船出したのは、安達盛長・岡崎義実・新開忠氏・土屋宗遠・土肥実平・田代信綱。 |
『吾妻鏡』の記録では、岡崎義実は頼朝の船出の前日に、北条時政・義時・近藤国平らと真鶴を船出したことになっている。 また、安房国に上陸したときには「土肥実平を連れて」と記録されているのみで他の名がないので、もしかすると頼朝の船に乗っていたのは実平のみだったのかも。 ただ、『延慶本平家物語』は、土肥実平も岡崎義実も頼朝とともに乗船し、安房国へ渡ったと伝えている。 いずれにしても、これらの武将が安房国へ渡ったことは確かな事かと・・・ |
石橋山の戦いから船出までの間には、三浦義明の衣笠城が畠山重忠・河越重頼・江戸重長によって攻められ、義明が討死(衣笠合戦)。 『吾妻鏡』によると、義明の子義澄をはじめとする三浦一族は衣笠城を逃れ、8月27日に安房へ向けて船出し、頼朝と合流。 このとき和田義盛は、未だどうなるかわからない状況のときに「侍所の別当」を希望し、頼朝はそれを承諾したのだという。 |
住吉神社は三浦一族が船出した地に鎮座する神社。 |
安房国に上陸した源頼朝を村人たちは親切にもてなした。 喜んだ頼朝が「天下を取ったら、褒美に安房一国を与える」と言うと、粟一石と勘違いした村人は「粟なら畑でも穫れるから苗字をもらいたい」と答えたのだという。 欲のない村人に対して頼朝が「そうか、ばかだなぁ」と言うと、今度はそれが与えられた苗字だと勘違いし、「左右加」(そうか)、「馬賀」(まが)と名乗るようになったのだとか・・・。 |
源頼朝は、安房国に上陸したとき、サザエを踏んで怪我をしてしまった。 怒った頼朝が「角などなくなってしまえ」と怒鳴ると、それ以来、竜島のサザエに角がなくなったのだという。 |
神明神社は、安房国の平北郡猟島(鋸南町竜島)に上陸した源頼朝が滞在したという場所。 頼朝は、ここから上総広常に手紙を書いたと伝えられ、9月3日、広常の館に向かうため平北郡猟島を出発している。 |
源頼朝公上陸地 (館山市) |
洲崎神社 (館山市) |
源頼朝の上陸地については、『源平盛衰記』や『義経記』では洲崎だと伝えられている。 洲崎神社は、安房に上陸した頼朝が参拝したという神社。 |
源頼朝は、安房国に上陸する前に下総国行徳に漂着し、うどんを食べて力を得たのだとか・・・ |
安房国に渡った源頼朝は態勢を立て直し、千葉常胤、上総広常などの武将を従えて10月2日に武蔵国へ入り、10月6日には相模国へ入った。 |
千葉県安房郡鋸南町竜島165−1 JR内房線「安房勝山」駅から徒歩10分 |
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