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『吾妻鏡』では、「上総介平直方の五代の孫北条四郎時政主は当国の豪傑なり」と紹介されている武将。 北条氏は、伊豆国田方郡北条(現在の伊豆の国市)を拠点とした在地豪族。 平直方から北条時政に至るまでの系図は定かではなく、北条氏の出自は不明というよりほかないが、時政の後妻牧の方は、平頼盛に仕えた牧宗親の娘といわれている(妹とも。)。 頼盛は源頼朝を助けたという池禅尼の子(平清盛の異母弟)。 平家の関係者から嫁をもらうということで「平家とはかなり深いつながりがあった」ということは言えるのかもしれない。 |
鎌倉北条九代 北条政子と北条義時の母は伊東祐親の娘? 〜政子と義時は曽我兄弟といとこ〜 |
1160年(永暦元年)3月11日 |
平治の乱で敗れた源頼朝が伊豆国流罪。 時政はその監視役となる。 |
頼朝が流された地は蛭ヶ小島だったと伝えられている。 |
江間四郎・江間小四郎と呼ばれた北条義時 源頼朝が流された地は伊東という説 |
1177年(治承元年) |
長女政子が頼朝と結婚。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 「平家全盛の時だけに、平家に知られたら大変なことになる」と恐れた時政は、政子をひそかに家の中に引き込めた。 それでも政子は頼朝を想い、暗い雨の夜に灯もともさず、激しい雨に打たれながら、頼朝の所へ逃げていったのだという。 『源平盛衰記』や『曽我物語』などでは・・・ 頼朝と政子は、時政が大番役で京に上っているときに恋仲となり、それを知った時政は、目代の山木兼隆に嫁がせようとしたとされるが、兼隆は1179年(治承3年)に罪人として伊豆国に流された人物なので、史実ではないものと考えられる。 |
1180年(治承4年)4月27日 |
以仁王が発した平家打倒の令旨が北条館に届く。 |
1180年(治承4年)8月17日 |
頼朝が崇敬していた三嶋大社の祭礼の日に挙兵。 目代の山木兼隆を討ち取る。 |
8月24日 |
石橋山の戦いで大敗。 長男の宗時が討死。 |
石橋山古戦場 (小田原市) |
北条宗時の墓 (函南町) |
北条時政の嫡男は誰だったのか?〜石橋山の戦いで討死した北条宗時は?〜 |
8月29日 |
石橋山の大敗後、頼朝は一時箱根権現に身を寄せたが、8月28日、真鶴から安房へと船出。 その前日、時政・義時父子も安房へと船出し、8月29日、平北群猟島で頼朝を出迎える。 頼朝を助けた者たち |
源頼朝船出の浜 (真鶴町) |
源頼朝上陸地 (鋸南町) |
9月8日 |
時政・義時父子が甲斐国へ。 甲斐国の源氏を引き連れて信濃国へ赴き、平家軍を攻めるため。 |
頼朝の挙兵と甲斐源氏 北条時政の不思議な行動〜石橋山の戦い後、時政は逃亡した?〜 |
10月7日 |
頼朝が鎌倉入りを果たす(10月6日とも)。 |
10月13日 |
甲斐源氏と時政・義時父子が駿河国へ出発。 |
10月20日 |
富士川の戦い。 頼朝軍が平家軍を敗走させる。 |
1180年(治承4年)12月12日、源頼朝は新亭に入御。 時政・義時など御家人311人が御所に出仕し、頼朝を鎌倉の主に推戴。 鎌倉には頼朝の御所が完成しただけでなく、御家人の宿館も構えられ、武家の都が誕生した。 |
新亭完成・鎌倉殿と武家の都の誕生 東国の主君「鎌倉殿」 |
1182年(養和2年)10月17日 |
頼朝の浮気が発覚。 |
頼朝が愛人の亀の前を寵愛していること知った政子は、亀の前が匿われている伏見広綱の屋敷を牧宗親に命じて破壊させた。 宗親は時政の後妻牧の方の父(兄?)。 その後、宗親が怒った頼朝に髻(もとどり)を切られるという恥辱を受けると、時政は一族を率いて伊豆国へ引き上げるという騒動に発展。 その後、どうなったのかは不明。 |
浮気発覚・政子激怒 源頼朝に褒められた義時 |
1184年(寿永3年)1月20日 |
源範頼と源義経が木曽義仲を滅ぼす。 |
1184年(寿永3年)2月7日 |
一ノ谷に集結していた平家軍を源範頼と源義経が攻め、平家軍は敗走(一ノ谷の戦い)。 |
1185年(寿永3年)2月19日 |
一ノ谷の戦い後、讃岐国の屋島を本拠としていた平家軍を源義経が奇襲(屋島の戦い)。 |
1185年(寿永3年)3月24日 |
源義経率いる水軍と平知盛率いる水軍が、長門国赤間関壇ノ浦の海上で衝突し、平家が滅亡(壇ノ浦の戦い)。 |
1185年(文治元年)11月 |
朝廷に「守護・地頭の設置」を認めさせる。 |
源義経と源行家の謀反 |
1185年(文治元年)12月8日 |
吉野山で捕えられた源義経の愛妾静御前が、蔵王堂の執行から京都の時政邸に送られる(翌年3月1日には鎌倉へ送られいる。)。 |
1185年(文治元年)11月8日、頼朝は対立していた源義経が都を落ちると、大江広元の献策を受け入れて「守護・地頭」の設置を朝廷に要求することとする。 頼朝の命により入京した時政は、11月29日、「義経・行家の捜索・逮捕」、「守護・地頭の設置」、「兵粮米の徴収」を認めさせた(文治の勅許)。 その後も時政は京に留まって治安維持・平氏残党の捜索・義経問題の処理・朝廷との政治折衝などの任務にあたり、翌年4月13日に鎌倉に戻った。 時政の京での職務は京都守護と呼ばれる(のちの六波羅探題)。 |
義経逃亡と守護・地頭の設置 源義経と源行家の謀反 |
都を落ちた義経とともに大物浜へ行ったが、船が難破して海を渡ることはできず、家人はバラバラとなり、その夜は四天王寺に宿泊。 義経は2日ほどここで待つように告げて行方をくらましたが、迎えの馬がよこされ、3日かかって吉野山へ。 吉野山に5日間逗留した後、義経と別れ、蔵王堂へ辿り着いたのだという。 |
1189年(文治5年)4月18日 |
三男の元服式。 烏帽子親は三浦義連で「時連」と名乗るが、1202年(建仁2年)、時房に改名。 |
北条時房の元服と北条政子が激怒した改名の逸話 |
1189年(文治5年)6月 |
奥州征伐の祈願所としての願成就院を建立。 |
願成就院の阿弥陀如来坐像、不動明王及び二童子立像、毘沙門天立像は、時政の発願で運慶が制作したもの。 |
1193年(建久4年)5月28日 |
曽我兄弟が工藤祐経を討つ。 |
「曽我兄弟の仇討ち」は、源頼朝が催した富士裾野の巻狩りの際に起きた事件。 曽我十郎祐成と五郎時致の兄弟が、裾野に建ち並んだ宿舎に忍び込み、工藤祐経を殺害。 曽我兄弟は祐経に殺された河津祐泰の子(伊東祐親の孫)。 時致の烏帽子親が時政であることから、時政が事件の黒幕とする説もある。 仇討ち成就後、兄の十郎祐成は仁田忠常に討たれるが、弟五郎時致は頼朝の居所に突進していったといわれている。 「頼朝に恨みを述べてから死ぬつもりだった」というのが理由とされているが、本当は「頼朝の命を狙った」とする見方も可能。 |
曽我兄弟の仇討ちに関連して、頼朝の弟源範頼が謀反の疑いをかけられ伊豆修禅寺に流されるという事件も起こっている。 こちらについては北条政子の陰謀とする説がある。 |
1199年(建久10年」)1月13日 |
源頼朝が死去。 |
源頼朝は、亡くなる前年末に相模川の橋供養に参列。 その帰路に落馬したことが死の原因ともいわれているが、暗殺されたのではないかという説もある。 この橋供養は稲毛重成の妻の供養のためのもので、重成の妻というのは時政の娘。 |
旧相模川橋脚 (茅ヶ崎市) |
稲毛重成の墓 (川崎市) |
1199年(正治元年)4月12日 |
頼朝の家督を相続した源頼家の訴訟親裁を停止し、宿老13人による合議制によることを決定。 これに対し頼家は、4月20日、五人の近習に特権を与えている。 源頼家の近習5人 |
1199年(正治元年)12月18日 |
梶原景時が追放される。 |
1200年(正治2年)1月20日 |
梶原景時が駿河国清見関で滅亡。 |
源頼家の乳母夫だった梶原景時は、「結城朝光に謀反の疑いあり」として讒言したことで、御家人66名の弾劾にあい、鎌倉を追放された。 この事件は、時政の娘阿波局が結城朝光に景時の讒言を密告したことから始まっている。 阿波局はのちに三代将軍となる源実朝の乳母。 『吾妻鏡』によると、時政は景時の弾劾に加わっていないが、裏で糸を引いていたのは時政であったと推測することは可能。 実朝を将軍にするために、まずは景時が狙われたと考えてもおかしなことではない。 |
1200年(正治2年)4月1日 |
遠江守に任命され、従五位下を与えられる。 源氏一門以外で任命されたのは初めてこと。 |
1201年(建仁元年) |
正月、京都で城長茂が源頼家追討の宣旨を求めて反乱を起こすが、吉野山で誅殺されている。 4月には、越後国で長茂の甥資盛と妹の板額御前が反乱を起こすが、佐々木盛綱が鎮圧している(建仁の乱)。 |
1203年(建仁3年)6月23日 |
源頼家への謀反を企てたとして武田信光に捕らえられた阿野全成が誅殺された。 |
阿野全成は、源頼朝の異母弟、源義経の同母兄。 妻は時政の娘阿波局。 源頼家は、阿波局の引き渡しも求めたそうだが、北条政子が渡さなかったのだという。 |
1203年(建仁3年)9月2日 |
比企能員を暗殺。 北条政子に命じられた義時らが比企邸を攻め一族を滅亡させた。 9月7日、将軍頼家は出家。 9月15日、実朝が征夷大将軍に。 時政が実朝を補佐(執権政治の始まりと言われる)。 9月29日、頼家は修禅寺に幽閉。 |
比企能員の暗殺を実行したのは、時政の命を受けた仁田忠常と天野蓮景(遠景)。 二人は、能員の左右の手をつかみ、山裾の竹藪の中に能員を引きずり込み、殺害したのだという。 さらに、北条義時らが比企一族と源頼家の嫡子一幡を襲撃して滅ぼした。 能員も頼家の乳母夫だった。 |
一幡袖塚 (妙本寺) |
比企一族墓 (妙本寺) |
比企氏を滅亡させた時政は、大江広元と並んで鎌倉幕府の政所の別当となり、将軍・実朝の補佐を務めることとなる。 |
1203年(建仁3年)10月3日 |
娘婿の平賀朝雅を京都守護に就かせる。 |
1204年(元久元年)4月 |
伊賀・伊勢で起きた平家残党の蜂起を平賀朝雅が鎮圧(三日平氏の乱)。 |
1204年(元久元年)7月18日 |
源頼家を暗殺。 |
1205年(元久2年)6月22日 |
時政の謀略により、「鎌倉武士の鑑」と呼ばれた畠山重忠と嫡男の重保が滅ぼされる。 |
1205年(元久2年)閏7月19日 |
伊豆国へ追放される(牧の方の陰謀)。 |
源頼朝亡き後、源実朝を将軍とする計画を密かに進め、見事に幕府の実権を握った時政だったが、後妻牧の方の思いもあって娘婿の平賀朝雅を将軍にしようと思い始める。 それを知った北条政子は弟義時と協力して時政を鎌倉から追放。 京都守護だった平賀朝雅は、閏7月26日、追討軍によって討たれた。 8月には娘婿の宇都宮頼綱が謀反を疑われ出家している。 |
1207年(承元元年)11月19日 |
願成就院に三重塔を建立。 |
1215年(建保3年)1月6日 |
伊豆国の北条の地で死去。 墓所は願成就院。 |
鎌倉を追放されて伊豆に流された時政が 、伊豆の何処でどのように暮らしたのかは定かではない。 時政とともに伊豆へ流された牧の方は・・・ 平賀朝雅に嫁いだ娘が公家と再婚すると、娘夫婦を頼って京都で暮らしたのだとか・・・。 |
鎌倉幕府の草創のはじめ、時政は江の島に参籠したのだという。 その時、龍神が落としていった3つの鱗を北条の家紋としたのだとか(ミツウロコ(三つ鱗))。 |
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