北条政子と北条義時の母は伊東祐親の娘? |
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『真名本 曽我物語』によると・・・ 「北条時政の先妻は、鎌倉殿の御台盤所の母、曽我兄弟の父方の伯母」。 鎌倉殿は源頼朝。 御台盤所は北条政子。 曽我兄弟の父は河津佑泰。 河津佑泰は伊東祐親の嫡男。 とすると・・・ 北条時政の先妻は伊東祐親の娘で、北条政子や北条義時の母ということになる。 頼朝の最初の妻八重姫は、政子や義時の叔母ということに・・・。 |
曽我兄弟の父河津佑泰は、1176年(安元2年)10月、奥野(伊東市)で催された源頼朝を慰めるのための巻狩りの帰路、工藤祐経に殺害された。 その後、母の満江御前は、二人の子を連れて曽我祐信に再嫁。 兄の祐成は、祐信のもとで元服したのだと伝えられている。 弟は・・・ 『吾妻鏡』によると、1190年(建久元年)9月7日、兄の祐成に連れられて北条時政を訪れた筥王は、時政のもとで元服して曽我五郎時致と名乗ったのだという。 それから3年後の1193年(建久4年)5月28日、曽我兄弟は、源頼朝が催した富士裾野の巻狩りの際に工藤祐経を襲って父の仇を討った。 この事件は、ただの仇討ではなく、頼朝暗殺が目的で、その黒幕が北条時政だとする説や、頼朝の弟範頼を擁立しようとしたクーデターだったという説がある。 のちに範頼は修禅寺に流されて誅殺されるが、範頼の事件は北条政子が疑ったことに始まったことなどからすると、この頃の頼朝政権は危うい状態にあったのかもしれない。 |
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