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『吾妻鏡』によると・・・ 1199年(建久10年)1月13日、源頼朝が死去すると、26日には嫡男頼家が家督を相続。 しかし、同年4月12日、頼家の訴訟親裁を停止し、宿老13人による合議制によることが決定された。 一般的に、若年の頼家に慣習を無視した独裁が多く、御家人たちの反発を招いたことで、頼家の独裁を抑制することが理由とされるようだが、真偽は不明。 |
※ | 実際に13人の合議によって決定されたことはない。 |
北条時政 |
初代執権。 源頼家の外祖父。 1200年(正治2年)、梶原景時を滅ぼす(梶原景時の変)。 1203年(建仁3年)、比企氏を滅ぼす(比企氏の乱)。 1205年(元久2年)、畠山重忠を滅ぼすが(畠山重忠の乱)、直後の牧の方の陰謀事件で失脚し、伊豆国へ追放される。 |
北条義時 |
北条時政の嫡男。 1205年(元久2年)の畠山重忠の乱・牧の方の陰謀を機に二代執権となる。 1213年(建暦3年)、和田義盛を滅ぼす(和田合戦)。 1219年(建保7年)、源実朝が公暁に暗殺される(源実朝の暗殺)。 1221年(承久3年)、後鳥羽上皇の挙兵を鎮圧(承久の乱)。 |
大江広元 |
政所別当。 源頼朝の死後も幕府の中で中心的な役割を担い、鎌倉幕府の基礎を築き上げた公家。 |
三善康信 |
問注所執事。 伊豆の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝に、定期的に京都の情報を伝えていた公家。 母が頼朝の乳母の妹だったのだという。 |
中原親能 |
公家出身の御家人。 政所公事奉行。 大江広元の兄。 源頼朝の次女三幡の乳母夫。 1209年(承元2年)12月18日、京都で卒去。 |
三浦義澄 |
源氏再興の挙兵後、石橋山の戦いに敗れ、安房国に渡った源頼朝を助けた武将。 三浦大介義明の嫡男。 平家討追に尽力し、頼朝の征夷大将軍の辞令を受け取った。 1200年(正治2年)正月23日、死去。 |
八田知家 |
源義朝の落胤ともいわれ、源頼朝の挙兵に参陣。 1203年(建仁3年)、頼朝の異母弟阿野全成を討った(阿野全成の誅殺)。 1218年(建保6年)3月3日死去。 |
和田義盛 |
侍所別当。 三浦義明の孫。 1213年(建暦3年)の和田合戦で滅亡。 |
比企能員 |
源頼朝の乳母比企尼の養子。 源頼家の乳母夫。 1203年(建仁3年)の比企の乱で滅亡。 |
安達盛長 |
伊豆の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝を援助した武将。 源頼朝の乳母比企尼の娘婿。 1200年(正治2年)4月26日、死去。 |
足立遠元 |
足立氏の祖。 安達盛長の甥にあたる。 生誕年も没年も不明。 |
梶原景時 |
石橋山の戦いで平家方にありながら源頼朝を助けたという武将。 源頼家の乳母夫。 1199年(正治元年)12月に失脚、翌正月20日討死(梶原景時の変)。 |
二階堂行政 |
政所執事を務めた公家。 大江広元・三善康信と並んで源頼朝を支えた実務官僚。 生誕年も没年も不明。 |
頼朝亡き後、幕府の主導権を握ったのは、大江広元・中原親能らの官僚であったことから、合議制は、有力御家人の不満からとられた措置という説もある。 参考までに、頼朝の死の直後に起きた三左衛門事件を鎮静させたのは、大江広元と中原親能だった。 |
頼朝の死と二代鎌倉殿頼家と三左衛門事件 |
合議制は、頼家の実権を奪う決定とも考えられる一方で、頼家の権力を補完するために行われた訴訟制度の整備だったという説もある。 実際、『吾妻鏡』には13人全員で合議されたという記録が見当たらず、1200年(正治2年)5月の陸奥国の境界裁定は、三善康信の取次によって頼家が裁決している。 この裁定のときには、梶原景時が失脚し、三浦義澄と安達盛長が死去していることから、十三人の合議制は事実上解体されていたのかもしれないが・・・ |
源頼家の境界裁定 1200年(正治2年)5月 源頼家の念仏禁止令 1200年(正治2年)5月 |
頼家の訴訟親裁が停止される前の4月1日、御所内にあった裁判機関・問注所が御所外に移転されている。 『吾妻鏡』によると、1192年(建久3年)の熊谷直実と久下直光の訴訟の際に直実が逐電騒ぎを起こして以来、移転が検討されていたのだという。 『北条九代記』によると・・・ 頼家は、何事も粗略に扱い、外祖父の北条時政に任せきりで、遊興にふけっていたため、このような状況では、議論をたたかわせている者が狼藉でもしでかしたら思わぬ失態になってしまう。 そのため内々に評議して、熊谷直実のときのような事態を招かぬよう問注所を御所外に移して、三善康信を執事とし、今後の訴論は、北条時政・義時父子・大江広元・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・安達盛長・足立遠元・梶原景時らが談合して裁断すべきということになったのだという。 |
熊谷直実と久下直光の境界争いの裁判 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1199年(建久10年)4月20日、頼家は、小笠原長経・比企宗員・比企時員・中野能成等5人を近習とし、これらの者が鎌倉の中で狼藉をはたらいたとしてもそれを許すという特権を与えた。 さらに、頼家への対面は、この5人以外は許さないという決定を下している。 この決定を政所に張り紙して通達したのは、合議制の構成員の一人梶原景時と中原仲業だった。 これだけの説明からすると、合議制の構成員への対抗ともとれるが、頼家が近習に与えた特権は庶民に対してであって、宿老に対してのものではないことから、合議制に反発してのことではないとの説がある。 |
※ | 『吾妻鏡』4月20日条は、近習5人としながら4人の名しか記されていないが、あと1名は北条時連(時房)と考えられる。 |
※ | 『北条九代記』には、中原親能を京都の政務担当として六波羅に置き、近習として小笠原長経・比企宗員・和田朝盛・中野能盛・細野四郎を置いたことが記されている。 |
※ | 『吾妻鏡』7月26日条には、近習として小笠原長経・比企宗員・和田朝盛・中野能盛・細野四郎の名が見える。 |
※ | 梶原景時とともに頼家の決定を通達した中原仲業は、中原親能の家臣で源頼朝の右筆となった人物。 この年に起こる景時追放では訴状を起草している。 |
源頼家の近習5人 安達景盛の妾を奪った源頼家 |
1199年(建久10年)4月に布かれた十三人の合議制だったが、11月には梶原景時が失脚し、翌年1月、駿河国清見関で討死。 その3日後には三浦義澄が、4月には安達盛長が死去し、合議制は事実上解体した。 これにより、頼家の乳母夫比企能員と、頼家の弟実朝を将軍に据えようと企てる北条時政の対立が表面化してくる。 1203年(建仁3年)6月、実朝の乳母夫阿野全成が謀反を企てたとして誅殺されると、対立は激化していった。 全成は、時政の娘阿波局の夫。 |
1203年(建仁3年)8月27日、頼家が病床についた際に、日本国総守護職と関東28か国の地頭職を頼家の長子一幡に、関西38か国の地頭職を千幡(源実朝)に譲る決定が下される。 その後間もなく起こるのが比企の乱(比企能員の変)。 9月2日、比企能員が北条時政に暗殺され、北条政子の命により比企一族も北条義時らに攻められて滅亡。 頼家は伊豆修禅寺に幽閉され、翌年暗殺されている。 この事件後、北条時政は大江広元と並んで政所の別当となり、三代将軍となった源実朝の補佐を務めることとなる。 |
のちに三代執権北条泰時が設置する「評定衆」は、十三人の合議制を引き継いだものなのだという。 |
執権 | 連署 |
評定衆11名 |
1225年(嘉禄元年)、大江広元と北条政子が相次いで亡くなると、泰時は、連署と評定衆を設置し、新たな時代の体制を創り上げた。 |
北条泰時の集団指導制・合議政治〜連署と評定衆〜 |
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