|
鎌倉駅西口の御成小学校正門(旧御用邸門)から、今小路を由比ヶ浜方面に行くと問注所跡の石碑が建てられている。 問注所は鎌倉幕府の裁判機関で、当初は源頼朝の御所内(大倉幕府)にあったが、言い争いや喧嘩が絶えなかったことから、二代頼家のときにこの場所に移転された。 問注所は、1184年(元暦元年)に設置され、三善康信(善信)が執事(長官)に就任。 康信は、伊豆の蛭ヶ小島に流されていた頼朝に、定期的に京都の情報を伝えていた公家。 母が頼朝の乳母の妹だったのだという。 以後、三善氏が問注所執事を世襲している。 |
『吾妻鏡』には、1184年(元暦元年)10月20日に御所の東面の庇の下の二間に設けられ、問注所と書かれた額が掲げられたことが記録されている。 |
「問注」とは、訴訟の原告と被告の双方を取り調べて、その内容を文書記録とすること。 『吾妻鏡』には、原告と被告を呼び出して対決させ、その言い分を文章にするよう沙汰されたことが記されている。 |
源頼朝・頼家・実朝の源氏三代と北条政子の御所は、のちに大倉幕府と呼ばれた。 |
頼朝の時代には、御所の一所に原告と被告を呼び出して争わせていたが、多くの者が集まって騒ぎ立て、無礼をはたらく者もいたのだという。 『吾妻鏡』によると・・・ 1192年(建久3年)11月25日、頼朝の前で武蔵国の熊谷郷と久下郷の境界争いの裁判。 問注所に出頭したのは、熊谷直実と久下直光。 しかし・・・ 口べたで頼朝の質問に上手に答えることができない直実は、憤怒して書類を投げ捨てて座を立ってしまう。 さらに、西の侍所で刀を抜いて髻を切り、私宅へも帰らず逐電してしまった。 あっけにとられた頼朝。 この事件があってから、裁判は三善康信邸で行うこととなった。 その後、裁判を行う場所について議論が重ねられてきたようだが、1199年(建久10年)4月1日に御所の外に新造されることとなったのだという。 それから間もない4月12日には、頼家の訴訟親裁が停止され、宿老13人の合議によることが決定されている。 |
問注所での裁判の結果、無罪放免となった者が渡った橋を裁許橋と呼んでいる。 一方、有罪となった者は六地蔵辺りにあった刑場で処刑された。 |
裁許橋 |
六地蔵 |
鎌倉市御成町・御成小学校前 鎌倉駅西口から徒歩3分 |
大きい地図を見るには・・・ 右上のフルスクリーンをクリック。 |
|