|
『吾妻鏡』によると・・・ 三善康信(みよしやすのぶ)は公家の出身。 母が源頼朝の乳母の妹という関係から、伊豆に流されていた頼朝に月に三度の使いを送り、京都の情勢を伝えていたのだという。 後白河法皇の皇子以仁王が全国の源氏に平家打倒の令旨を発した1180年(治承4年)の6月19日には、平清盛が源氏を滅ぼすよう命令したことを伝えるとともに、源氏の正統の頼朝は特に危険なので早く奥州へ逃げるよう伝えている。 1182年(養和2年)2月8日、頼朝が伊勢神宮に奉納する願文の草案を鎌倉に送る。 1184年(寿永3年)4月14日、頼朝に誘われて鎌倉に下向。 翌日、鶴岡八幡宮の回廊で頼朝と対面し、鎌倉にいて武家の政務を補佐するよう頼まれて承諾。 同年10月20日、御所内(大倉幕府)に設置された問注所の執事に就任。 頼朝亡き後の1199年(建久10年)4月12日、二代将軍源頼家の訴訟親裁が停止されたときには、13人による合議制の一人に加わった。 1200年(正治2年)閏2月13日、壽福寺建立の「造作始め」を二階堂行光と行う(参考:源義朝の旧跡に創建された寺)。 1212年(建暦2年)10月11日、三代将軍源実朝と大慈寺の建設状況を確認するため大倉郷へ出かけた時には、病気療養中の頼朝が大倉郷に寺の建設を望んでいたことを実朝に話している(参考:大慈寺建立縁起と頼朝の死因)。 1221年(承久3年)5月15日、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発した承久の乱が起こると、5月21日、病身の康信は、大江広元とともに大将軍(北条泰時)一人でも出陣すべきと主張して、幕府軍を勝利に導いた。 承久の乱に勝利して間もない8月9日卒去(82歳)。 問注所執事の職は、子の康俊が継いだ。 |
※ | 頼朝の乳母には比企尼・寒川尼・山内尼などがいたが康信の母が誰の妹だったのかは不明。 |
※ | 康信の出家後の名は善信(ぜんしん)。『吾妻鏡』の記録からすると1181年(治承5年)閏2月から翌3月に出家したと思われる。 |
問注所は鎌倉幕府の裁判機関で、当初は源頼朝の御所内(大倉幕府)にあったが、言い争いや喧嘩が絶えなかったことから、二代頼家のときに御所の外に移転された。 |
北条義時追討の官宣旨案 (神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵)) 北条義時追討の宣旨 (『承久記』(流布本)) 北条義時追討の院宣 (『承久記』(慈光寺本)) 北条義時追討の宣旨に対する返書 |
|