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源頼朝の乳母を務めた山内尼(やまのうちのあま)は、鎌倉郡山内荘の山内首藤俊通の妻。 山内首藤氏は、藤原秀郷の後裔といわれ、資清の代で「首藤」(すどう)を名乗る。 その後、孫の俊通が相模国鎌倉郡山内荘を領して「山内」を名乗り、「山内首藤氏」と呼ばれるようになった。 「首藤」という氏は、資清が「主馬首」(しゅめのかみ)という役職にあったため、「主馬首」の「首」と、「藤原」の「藤」に由来しているといわれている。 首藤氏は、代々河内源氏に仕え、俊通は源義朝に仕えていたが、1159年(平治元年)の平治の乱で子俊綱とともに討死した。 |
北鎌倉の明月院は、首藤俊通の菩提を弔うために建てられた明月庵を前身とする。 |
1180年(治承4年)7月、源頼朝は挙兵に際して、山内尼の子経俊に加勢を要請するが、経俊は大庭景親に味方し、石橋山の戦いで頼朝に弓を引いてしまう。 富士川の戦い後に捕らえられた経俊は、身柄を土肥実平に預けられ、山内荘を没収された。 その後、頼朝は経俊を斬罪に処すよう命ずるが、山内尼が頼朝に助命を願ったことで許されたのだと伝えられている。 |
『吾妻鏡』治承5年(1181)閏2月7日条によると・・・ 源頼朝が誕生したときに乳付(授乳)した乳母は、尼となって摩々(まま)と呼ばれ、相摸国の早河荘に住んでいた。 この日、頼朝は摩々尼(ままに)の屋敷・田畑を安堵するよう地頭に命じ、同年11月29日には早河荘の年貢を免除している。 |
『吾妻鏡』には、摩々という乳母がもう一人登場する。 文治3年(1187年)6月13日条によると、頼朝のもとに父義朝の乳母が訪ね、平治の乱後、京都から相模国の早河荘へ下り、荘内の田七町を耕してきた事を語っている。 この時、頼朝は、その土地を領有して支配することを許している。 この義朝の乳母は、建久3年(1192年)2月5日条にも登場し、摩々局(ままのつぼね)と呼ばれている。 この時の年齢が92歳。 頼朝が「望みがあれば何でも叶えよう」と尋ねると、摩々局は、早河荘内の課役免除を総領に命じてくれるよう願い、頼朝は三町の土地を加えた上で、平盛時を呼んで土肥実平に課役免除を命ずるよう伝えている。 さて・・・ 頼朝の乳母と義朝の乳母が「摩々」と呼ばれ、同じ場所に住んでいるということは、同一人物なのか? 別人だとすると親子か親族なのか? もし、同一人物だとすると・・・ 頼朝が生まれたのは1147年。 摩々局は1192年で92歳。 ということは、47歳のときに乳付したということになるが、年齢からすると少々無理がある。 乳付には授乳という意味だけでなく「授乳できるようにすること」という意味もあるといわれるが、『吾妻鏡』には、頼朝に乳付した乳母は「青女」と記されている。 青女は若い女性のことを意味しているようなので、47歳の女性に使う言葉ではないようだ。 |
頼朝に授乳したという摩々尼については、山内尼と同一人物という説がある。 山内尼は、摩々尼が『吾妻鏡』に登場する前年の11月26日に登場し、石橋山で頼朝に敵対して捕らえられた息子・山内経俊の助命を願っている。 経俊は、頼朝に敵対したことで山内荘を没収され、身柄は土肥実平に預けられていた。 土肥実平は、土肥郷を本拠として早河荘も統治していたので、山内尼が早河荘に住んでいたことがあっても不思議ではないのかもしれない。 ただ、山内尼と摩々が同一人物であるなら、何故『吾妻鏡』で呼び方が違うのか??? 乳母のことを「まま」と呼ぶこともあったようだが・・・ |
義朝の乳母の摩々局は、平治の乱後、早河荘に下っていることから中村氏の一族と考えられ、頼朝の乳母の摩々尼は、摩々局の娘と考えられるようだ。 そして、摩々尼と山内尼と同一人物であると考えると、子で頼朝に敵対した山内経俊が中村一族の土肥実平に預けられたということも納得できる。 |
頼朝が挙兵時に身に着けていた観音像は、摩々尼が清水寺に籠った際に下されたものという説も・・・ |
観音信者だった源頼朝〜守り本尊は清水寺から授かった正(聖)観音像〜 |
富士川の戦い後、土肥実平に預けられた山内荘は、和田合戦後に北条義時の預かりとなる。 以後、北条得宗家の所領として管理され、建長寺・円覚寺・浄智寺・東慶寺といった北条氏ゆかりの禅寺が建ち並ぶようになる。 |
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