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『吾妻鏡』によると・・・ 源頼朝の守り本尊は二寸銀の「正(聖)観音像」。 この観音像にはこんな伝説が・・・ 頼朝が3歳のときのこと。 乳母が清水寺に参籠して頼朝の将来を心を込めて祈ること二七箇日(14日)、夢のお告げがあって、にわかに二寸銀の正(聖)観音像を授かったのだといいます。 そのため、頼朝はその観音像を心から敬い信じていたのだと伝えられています。 |
清水寺は、奈良時代後期に創建された観音霊場(西国三十三所の十六番)。 清水寺に参籠した頼朝の乳母は、山内尼ではないという説が・・・ |
1160年(永暦元年)3月11日、前年の平治の乱で平清盛に敗れて伊豆国流罪となった頼朝。 流されたのは蛭ヶ小島だったと伝えられています。 それから20年経った1180年(治承4年)・・・ 源氏再興の挙兵を決意した頼朝は、挙兵前月の7月5日、走湯権現(伊豆山権現:現在の伊豆山神社)の覚淵を北条館に呼び出して、こう尋ねます。 「心に思うところがあって、法華経を千回読誦つもりでしたが、火急の事態になってしまい、続けることが難しくなってしまいました。 ですから、転読八百回にして仏に願いを申し上げようと思いますがいかがでしょうか」 この問いに対して覚淵は 「千回に満たなくても仏の心に背くことにはなりません」 と答え、香と花を仏前に供えて祈り、さらに、 「頼朝さまは八幡大菩薩の氏人で、法華経八巻をいつも持経されている方。 八幡太郎義家さまの旧跡を継いで、東国八カ国の勇士を従えて、八条に住む重大犯罪人・平清盛一族を退治することは、頼朝さまの掌中に握られています。 これは八百回読んだことによるご利益です」 と申し上げると、頼朝は大いに喜んだのだと伝えられています。 |
※ | 法華経のなかの25番目の経典が観音経 |
※ | 清盛以下平家一門の邸宅は六波羅にありましたが、清盛は八条にも邸宅がありました。 |
古くは走湯権現・伊豆山権現と呼ばれた伊豆山神社は、頼朝と北条政子が崇敬した社。 頼朝の挙兵後、政子と大姫は伊豆山神社に身を潜めていました。 |
1180年(治承4年)8月17日、挙兵した頼朝。 清水寺から授かった観音像を髻に入れていました。 伊豆国の目代山木兼隆を討ち、20日には相模国へと進軍します。 しかし・・・ 8月24日、石橋山で大庭景親・伊東祐親の平氏軍に大敗し、土肥郷椙山の山中に逃れます。 大庭軍の追跡が厳しい中、しとどの窟に隠れ潜んでいた頼朝は、髷の中に入れていた観音像を岩窟の上に置きます。 土肥実平がどうしてか尋ねると・・・ 「景親ら平氏に首を討たれるときに、 この観音像を見られると、源氏の将軍らくしくないと非難される」 という理由だったのだといいます。 |
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で頼朝が身に着けていた観音像(伊豆の国大河ドラマ館展示品)。 |
石橋山の戦い後、山中を彷徨い、一時箱根権現(現在の箱根神社)に身を寄せていた頼朝ですが、8月28日、真鶴から安房へと船出します。 伝説によると・・・ 観音様が船頭となって助けてくれたのだとか・・・ |
箱根神社 (箱根町) |
源頼朝船出の浜 (真鶴町) |
頼朝が真鶴から船出する際、追手から逃れるために隠れ潜んでいたという鵐窟には、頼朝観音が祀られています。 |
安房に渡って再起した頼朝。 10月6日(7日とも)には大軍を率いて鎌倉入りを果たします。 12月25日、伊豆山権現の専光房良暹の弟子僧が、しとどの窟に置いてきた清水寺の観音像を鎌倉の頼朝に届けてくれました。 頼朝は手を合わせ、自らが受け取ったのだと伝えられています。 そして9年後・・・ 1189年(文治5年)7月18日、頼朝は、伊豆山権現の專光坊良暹を呼び出し、御所の裏山に奥州征伐の祈願所を設けて、清水寺の観音像を安置して祈ることを命じています。 また、社殿はあとで建てるので、奥州へ出陣して20日目に柱だけを建てるよう命じました。 翌日、頼朝は奥州平泉の藤原泰衡を討つため出陣。 8月8日早朝、良遷は御所の裏山によじ登り、柱を四本建てて観音堂と名付けました。 頼朝とは出陣してから20日後と約束していましたが、夢のお告げがあったので、この日にしたのだそうです。 この日は、阿津賀志山の戦い(あつかしやまのたたかい)が始まった日で、『吾妻鏡』は「なんとも不思議な出来事である」と伝えています。 |
※ | 伊豆山権現の専光房良暹は、石橋山の戦いで頼朝を助けた梶原景時の兄という説があるようです。 |
1190年(建久元年)、上洛した頼朝は、11月18日、清水寺を参拝し、法華経を読誦する僧達に多くの品を施したのだと伝えられています。 |
清水寺 |
子安塔 |
源義経の母常盤御前も清水観音を信仰していたといわれ、平治の乱で源義朝が敗れると、三人の子の無事成長を祈願したのだと伝えられています。 子安塔に安置されている千手観音は、常盤御前が祈願した観音像と伝えられています。 |
奥州征伐の折、伊豆山権現の良遷が建てた観音堂は、のちに持仏堂と呼ばれます。 1199年(建久10年)1月13日に亡くなった頼朝は、持仏堂に葬られました。 持仏堂は、頼朝が葬られると法華堂と呼ばれました。 ただ・・・ 『吾妻鏡』によると、1231年(寛喜3年)10月5日に起こった火事で法華堂と本尊(観音像)が焼失してしまっています。 |
現在の源頼朝墓は、江戸時代に法華堂跡地に建てられたもの。 |
補陀洛渡海は、南の海にある「補陀洛山」に行けば、浄土の中で安楽できるという信仰。 源頼朝に仕えていた下河辺行秀は、熊野灘から補陀洛山を目指して船出したのだと伝えられています。 |
観音浄土へ船出した下河辺行秀〜補陀洛渡海〜 |
坂東三十三箇所は、源頼朝の観音信仰と、源平の戦いで西国に赴いた武者たちが西国三十三箇所の霊場を観たことで、鎌倉時代初期の開設につながったのだといわれています。 一説によると、頼朝によって発願された観音巡礼は、それを受け継いだ子の実朝が西国霊場を模範として札所を制定したのだとか・・・。 その後、観音巡礼は、西国三十三箇所、坂東三十三箇所に、秩父三十四箇所が加わり、百観音巡礼として発展していきました。 |
慈光寺は、頼朝が伊豆の流人だった頃から信仰していた観音霊場。 奥州征伐の際には愛染明王像を贈り、戦勝を祈願させました。 奥州平定後には愛染明王の御供米を贈り、鎮守社の萩日吉山王宮には北条政子の名で田畑が寄進されたのだと伝えられています。 |
浅草寺は、東京都で唯一の坂東札所(第十三番)。 挙兵後、安房に渡って鎌倉を目指した頼朝は、1180年(治承4年)10月2日に武蔵国に入ると浅草寺で『平氏討滅祈願』を行ったとのだと伝えられています。 |
正法寺(岩殿観音)は、坂東札所第十番。 頼朝が武蔵国比企郡の豪族・比企能員に命じて正法寺を復興させたことで坂東札所の一つに選ばれたのだとも・・・ |
大谷寺の本尊は弘法大師作と伝えられ、日本最古の石仏といわれる千手観音。 坂東札所第十九番。 |
大和国長谷寺(奈良の長谷寺)は、西国三十三所の八番。 東大寺開山の良弁の弟子だったという徳道が聖武天皇の勅命により開いたと伝えられ、西国三十三所の開祖は徳道なのだという。 北条政子が参詣しているらしい。 |
石山寺は西国三十三所の十三番。 東大門・鐘楼・多宝塔は頼朝の寄進と伝えられ、頼朝の供養塔も建てられています。 |
中山寺は日本最初の観音霊場 西国三十三所の二十四番。 頼朝は源平の戦いで荒廃した中山寺を再建したのだという。 |
寛永寺の清水観音堂の本尊は、平盛久が清水寺に奉納したものと伝えられている千手観音。 盛久は、平家の家人で壇ノ浦の戦い後に捕えられ、鎌倉の由比ヶ浜で斬首されることになっていましたが、頼朝は清水観音の夢告により助命したのだと伝えられています。 参考:主馬盛久頸座 |
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