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伊豆山神社は、古来、「伊豆山大権現」または「走湯大権現」とも称され、源頼朝が崇敬した神社。 創建年は不明だが、当初は日金山に建てられ、本宮山を経て、836年(承和3年)に現在地へ遷座されたのだという。 伊豆国の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝は、ここで源氏再興を祈願した。 若き日の頼朝と北条政子が忍び逢う場所でもあったという。 1180年(治承4年)、挙兵を決意した頼朝は、伊豆山権現の覚淵を北条邸に呼び出して相談している(参考:般若院)。 挙兵後、政子を匿ったのも覚淵だった(参考:秋戸郷跡)。 覚淵は、山木館襲撃で活躍した加藤景廉の兄弟ともいわれる。 |
正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊 (まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと) 拷幡千千姫尊 (たくはたちぢひめのみこと) 瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと) |
頼朝が流されていたというは蛭ヶ小島には、「頼朝と政子が伊豆山神社の保護によって夫婦になることができた」ということに因んで、「梛の葉の縁結びの碑」が建てられている。 |
鎌倉時代以前より、多くの僧兵を持していた伊豆山権現。 1175年(安元元年)、伊東祐親から追われる身となった源頼朝が、一時、身を潜めた場所でもある。 一杯水は伊豆山権現に逃れる途中の頼朝が喉の渇きを癒した場所と伝えられ、今宮神社は開運を祈願した神社と伝えられている。 |
源頼朝の一杯水 |
今宮神社 |
伊豆山神社の境内の建物や頼朝・政子の伝説、周辺の関連史跡等をご案内。 |
かつて、伊豆山神社には鎌倉の浄智寺から移された鐘があったのだという・・・ 浄智寺から移された鐘 |
関八州の総鎮守として歴代将軍の信仰を集めた伊豆山権現は、鎌倉・室町期には広大な神領を有し、最盛期には64もの僧坊や修験坊があって3800名もの僧兵がいたのだという。 1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めでは北条に味方したため、全山が焼き討ちに遭い、3000人もの僧兵が犠牲になった。 その後、徳川家康によって復興され、江戸時代には12の僧坊と7の修験坊を有するようになった。 |
伊豆の流人だった源頼朝が源氏再興を祈願した伊豆山権現と箱根権現。 三代執権・北条泰時は、武家法の基本となった御成敗式目公布にあたって、伊豆山権現・箱根権現・三島大明神・八幡大菩薩などの仏法・仏神に帰依すべきとことを起請している。 関東を治めるために二所権現を無視することができないことは、『吾妻鏡』愛読者の家康にはわかっていたはず・・・ |
御成敗式目〜北条泰時が評定衆に書かせた起請文〜 |
伊豆山権現の別当坊だったという般若院は、真言宗伊豆派の聖地として関東一円に大きな勢力を誇っていたという。 明治の神仏分離によって伊豆山権現は伊豆山神社となり、般若院も移転している。 |
家康の湯 |
湯前神社 |
1604年(寛文2年)、7日間にわたって湯浴みのため熱海に逗留しているという徳川家康。 熱海駅前の足湯は家康の湯浴みから400年を記念して整備されたもの。 家康は湯前神社前の「大湯間歇泉」から湧き出す源泉に入浴していたのだとか・・・ 参考:熱海七湯 |
専光房良暹は、伊豆山権現の住僧。 箱根権現の行実の弟子で、石橋山の戦いで源頼朝を助けた梶原景時の兄という説がある。 1180年(治承4年)10月、源頼朝が鎌倉に入ると、かねてからの約束により良暹も鎌倉入り、鶴岡八幡宮の仮の別当に任じられ、源平池(放生池)の造営などに携わった。 1189年(文治5年)には、頼朝の持仏堂を建立し、奥州征伐の成功を祈っている。 持仏堂の本尊は、頼朝が清水寺から賜った観音像。 石橋山の戦いで敗れた頼朝が洞窟に置いてきた観音像で、良暹の弟子僧が探し出したものと伝えられている。 1192年(建久3年)には、逐電して出家しようとした熊谷直実を諫めたこともある。 |
『吾妻鏡』によれば、源頼朝は、伊豆山と箱根山の二所権現と三嶋社を参詣する「二所詣」を1188年(文治4年)に行っている。 「二所詣」の最初の記録とされ、以後、鎌倉時代を通して行われた。 三代将軍源実朝が編んだ「金槐和歌集」には、二所詣の際に詠んだという歌が載せられている。 |
二所詣 |
十国峠 (源実朝歌碑) |
ちはやぶる伊豆のお山の玉椿八百万代も色はかはらし 箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよるみゆ 伊豆の国や山の南に出づる湯の速きは神の験なりけり |
源頼朝と日金地蔵・・・十国峠から伊豆山神社へ(okadoのブログ) |
『吾妻鏡』によれば、1192年(建久3年)5月8日、源頼朝が後白河法皇の四十九日法要を勝長寿院で行った際には、伊豆山権現の僧も18名参列している。 他は、鶴岡八幡宮20人、勝長寿院13人、箱根権現18人、大山寺3人、金目観音3人、高麗寺3人、六所神社3人、岩殿寺2人、杉本寺1人、窟不動1人、慈光寺10人、浅草寺3人、真慈悲寺3人、飯泉観音2人、国分寺3人。 |
『吾妻鏡』によると、源頼朝は、8月15日の放生会や3月3日の重三の節句(上巳の節句)などに、箱根権現や伊豆山権現の稚児を呼び寄せ、鶴岡八幡宮で舞楽を勤めさせている。 箱根権現や伊豆山権現の稚児が鶴岡八幡宮の饗宴に果たした役割は大きかった。 |
「頭髪梵字曼荼羅」(法華曼荼羅)は、その46文字の梵字が北条政子の髪の毛で編まれているという。 |
「走湯山上常行堂への寄進状写」は、治承7年7月25日に走湯山座主が相模国「長墓郷」を走湯山上常行堂に寄進するという文書の写し。 治承7年は寿永2年(1183年)。 寄進状に書かれた花押は、源頼朝の異母弟・阿野全成のものという可能性があるらしい・・・ |
長墓郷は現在の小田原市永塚。 永塚の雷電神社は、走湯山(伊豆山神社)に相模国長墓郷が寄進された際、走湯山の雷電社を勧請したのだという。 |
例大祭 4月14日〜16日 |
枝垂れ桜 |
みそぎの滝 |
来宮神社 |
みそぎの滝は、源頼朝が日金山や伊豆山を参詣する際に禊(みそぎ)をしたという場所。 来宮神社は伊豆山神社の地主神とも? |
『吾妻鏡』によると、鎌倉幕府の初代執権となった北条時政は上総介平直方の五代の孫とされている。 直方の子聖範は、伊豆山神社の僧で阿多見禅師と呼ばれていたらしい。 北条氏の系図には諸説あるが、聖範から続く時方が伊豆山から和田に移って和田四郎大夫を名乗り、さらに、時方かその子が韮山に移って北条を名乗ったのだという説がある。 和田に移った時方は、聖範の子とも孫ともいわれ、時政の父とも・・・ 鎌倉北条九代 |
源延は、比叡山に学んだ後、法然に学び、伊豆山権現の別当となったとされている僧。 生歿年は不明だが、源頼朝に仕えた加藤景員の子とされ、頼朝が師事した覚淵や加藤景廉の兄弟ともいわれる。 信濃善光寺の阿弥陀如来を信仰し、松田山(神奈川県松田町)に西明寺(現:最明寺(大井町))を建立。 鎌倉幕府二代執権北条義時の墳墓堂供養の導師を勤めている。 |
静岡県熱海市伊豆山上野地708番地1 JR熱海駅からバスで7分 |
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