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勝長寿院は、源頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立した寺院。 当時は「大御堂」とも呼ばれ、現在もその名が地名として残されている。 1185年(文治元年)9月3日、後白河法皇から送られた源義朝と、義朝に仕えた鎌田政長(政清・政家)の首を葬り、追善の法会が行われた。 『吾妻鏡』によると、頼朝は2人の首を持った使者を片瀬まで迎え出て受け取ったのだという。 源義朝は、1159年(平治元年)に起こった平治の乱に敗れ、東国に逃れる途中、尾張国野間で長田忠致の裏切りに遭い、郎党の鎌田政長とともに殺された。 |
※ | 勝長寿院は、北条時行の中先代の乱の折、諏訪頼重ら43人が自刃した場所でもある。 |
本蓮寺は頼朝が義朝の首を受け取った場所と伝えられる。 稲瀬川にも同じような伝説が残されている。 |
頼朝は、義朝の骨を埋葬するに当たって、多くの御家人を遠ざけ、源氏一門である平賀(源)義信、その子大内(源)惟義、毛利(源)頼隆を従えて葬ったと伝えられている。 平賀義信は、新羅三郎義光の孫で平治の乱で義朝に供した。 毛利頼隆は、源義家の孫で平治の乱で父が義朝の身代わりとなって討死している。 いずれも、義朝にゆかりのある源氏の武将。 |
鎌田政長は、義朝の郎党で、保元の乱の折、義朝の父為義を斬る務めを果たし、平治の乱では義朝を東国に逃そうとした武将。 義朝とともに尾張国野間で長田忠致の裏切りに遭い殺された。 愛知県知多郡美浜町の野間大坊にある義朝の墓の傍らには、政長夫妻の墓がたてられている。 政長の母は、義朝の乳母を務めたため、義朝と政長は乳兄弟と呼ばれていた。 義朝と政長を殺害した長田忠致は政長の舅。 頼朝が挙兵すると頼朝に従ったといわれ、平家滅亡後に、頼朝の命によって斬首されたと伝えられている。 父為義と弟たちを斬った源義朝 |
源義朝の墓 (愛知県) |
長田父子磔の松 (愛知県) |
1194年(建久5年)10月25日、勝長寿院では政長の娘の主催で法要が営まれ、頼朝はこの娘に尾張国志濃畿と丹波国田名部の地頭職を与えている。 |
勝長寿院は、源頼朝が鶴岡八幡宮の次に造営した寺院。 『吾妻鏡』には「霊崛」(れいくつ)と記されている。 本堂(阿弥陀堂)には、宅間(藤原)為久による「浄土瑞相二十五菩薩像」(壁画)が描かれ、成朝(奈良仏師)によって彫られた「黄金の阿弥陀仏」が本尊として安置され、1185年(文治元年)10月24日に落慶供養が行われた。 供養の導師は園城寺の公顕。 1219年(承久元年)12月27日には、北条政子が源実朝の冥福を祈るため五仏堂を建立し、運慶の五大尊像が安置されている。 1256年(康元元年)12月11日、頼朝の法華堂前で起きた火災により焼失。 1258年(正嘉2年)の北条時頼の再建時には、本堂・弥勒堂・五仏堂・三重塔・惣門が建てられたといわれているが、その後、度重なる火災に遭い、16世紀前期頃に廃寺となったと考えられている。 |
1186年(文治2年)、源義経の愛妾静御前は、鶴岡八幡宮若宮の回廊で舞った後、頼朝の娘大姫に頼まれ、勝長寿院でも舞を披露している。 大姫は、婿の木曽義高が殺されて以来、体調が優れず、勝長寿院に参籠して病気回復祈願を行っていた(参考:岩船地蔵堂)。 1197年(建久8年)没。 勝長寿院に葬られたと考えられる。 |
1187年(文治3年)3月8日、源頼朝は、義経を匿い祈祷を行ったとして奈良興福寺の聖弘(しょうこう)を鎌倉に呼び出して尋問した。 それに対し聖弘は、 「義経が師檀のよしみで頼ってきたので一時匿ったが、義経を諫めて送り出した。 祈祷は義経の逆心を宥めるもので、罪に問われるものではない」と答え、 さらに「関東が安全でいられるのは義経の武功によるものであるにも拘わらず、讒言を受けて恩賞の地を取り上げれば逆心を抱くのは当然。 義経を呼び戻して和解し、兄弟で水魚の交わりをする事が国を治めることだ」と説いた。 聖弘の態度に感心した頼朝は、勝長寿院の供僧職を与え、関東繁栄の祈祷を命じたのだという。 |
源義経を匿った興福寺と鎌倉に呼び出された聖弘 |
1190年(建久元年)の盂蘭盆には、平氏亡霊のための万灯会が催された。 |
1192年(建久3年)5月8日、源頼朝は後白河法皇の四十九日法要を勝長寿院で行っている。 参列した僧は、鶴岡八幡宮20人、勝長寿院13人、伊豆山権現18人 箱根権現18人、大山寺3人、金目観音3人、高麗寺3人、六所神社3人、岩殿寺2人、杉本寺1人、窟不動1人、慈光寺10人、浅草寺3人、真慈悲寺3人、飯泉観音2人、国分寺3人。 |
1219年(承久元年)、源実朝の追福のために、母北条政子が建てた五仏堂に、運慶によって彫られた五大尊像(五大明王)が安置された。 運慶は、この前年に、源実朝の持仏堂の本尊釈迦如来像と大倉薬師堂の本尊薬師如来も彫ったといわれている。 |
日光山(輪王寺・二荒山神社)は、源頼朝や源実朝が帰依した神仏混淆の霊場。 源実朝の護持僧だった二十四世弁覚(べんかく)は勝長寿院の別当も兼ね、1253年(建長5年)、二六世尊家が勝長寿院の別当を兼ねて以後は、日光山座主は鎌倉に住み、日光山は光明院の監守が留守職として山務を執るようになったのだという。 弁覚は実朝の菩提のため、輪王寺の前身となる四本龍寺に三重塔を建てている。 |
輪王寺 |
二荒山神社 |
1219年(建保7年)、三代将軍源実朝は、甥の公暁によって暗殺され、勝長寿院に葬られた。 しかし、首は公暁が持ち去ってしまいなかったことから、首の代わりに髪の毛を棺に納めたのだと伝えられている。 |
源実朝公御首塚 (秦野市) |
壽福寺の五輪塔 |
三浦義村の家臣武常晴が実朝の首を拾い葬ったのが秦野市にある首塚なのだという。 源実朝の首と七騎谷の伝説 |
古寺のくち木の梅も春雨にそぼちて花もほころびにけり |
※ | 源実朝が勝長寿院を訪れた際に梅の花が咲いているのを見て詠んだ歌。 |
源頼朝の妻北条政子は、晩年、勝長寿院の奥に屋敷を建てて住んでいたといわれ、1225年(嘉禄元年)に亡くなり、そこで火葬されたという。 政子が建てた壽福寺や安養院にもその墓と伝わるものがあるが、勝長寿院に葬られたと考えられる。 |
安養院の宝篋印塔 |
壽福寺の五輪塔 |
鶴岡八幡宮・勝長寿院・永福寺は、源頼朝建立の三大寺院と呼ばれる。 |
鎌倉市雪ノ下4丁目 鎌倉駅徒歩25分 |
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