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源頼朝と北条政子の長女・大姫は、まだ頼朝が伊豆の流人だった1178年(治承2年)の誕生と考えられている。 大姫は、長女を意味するもので、本名が何だったのかは不明。 |
1183年(寿永2年)、木曽義仲の長男・義高(清水冠者)が人質として鎌倉に送られてきた(名目上は大姫の婿)。 義高が11歳、大姫は6歳の頃のこと。 義高によく懐いていたという大姫・・・ しかし、1184年(寿永3年)正月20日、頼朝は弟の範頼と義経に命じて、義高の父木曽義仲を滅ぼし、4月になると義高も誅殺することを命じた。 そこことを知った大姫は・・・ |
1184年(元暦元年)4月21日の夜明け前、大姫は義高に女装をさせ、大姫の女房達が義高を囲んで屋敷から出した。 他の場所に隠してあった馬の蹄には真綿が巻かれ、音を人に聞かれないようにしてあったのだという。 義高の寝床には、海野小太郎幸氏が臥し、日が昇ると、双六をして義高がいるふりをしていた。 しかし・・・ 晩になって露見。 怒った頼朝は、幸氏を捕らえ、堀親家以下の者に義高を見つけ出し討ち取るよう命じた。 大姫は、あわてふためき、魂が消えてしまうほどだったのだと伝えられている。 |
※ | 海野幸氏は、義高が鎌倉に送られる際に随行してきた信濃国の武将で弓馬四天王の一人。 |
それから5日後の4月26日、堀親家の郎従藤内光澄が戻り、入間河原で義高を誅殺したことが報告された。 義高を失った大姫は、嘆き悲しみ、病床に伏し、日毎に憔悴していってしまう。 6月27日、政子は、大姫が病気になったのは義高を殺した藤内光澄を、配慮が足りなかったとして斬罪に処している。 |
常楽寺裏山の木曽塚には、木曽義高の首が葬られていると伝えられている。 |
清水八幡宮は、義高を祀る社。 首を取られた義高の遺体は、里人によって入間河原に葬られ、政子が供養をし、義高を祀る社が建てられたのだという。 |
伊豆山神社の麓にある逢初地蔵堂は、大姫の延命祈願のために政子が建立したのだと伝えられている。 |
1186年(文治2年)4月8日、頼朝の命により鶴岡八幡宮で舞った静御前は、5月27日、大姫が病気快復祈願のため参籠していた勝長寿院でも舞を披露。 |
愛する義経との仲を引き裂かれた静御前と義高を殺された大姫。 お互いにとって、特別な存在だったのかもしれない。 |
1194年(建久5年)7月29日、危篤状態となった大姫。 8月8日、頼朝は日向薬師で大姫の病気治癒祈願を行っている。 |
日向薬師は、行基によって開かれた霊山寺がそのはじまりとされ、薬師如来の霊場として信仰されてきた。 |
1195年(建久6年)、頼朝は、妻の政子、長男の頼家、長女の大姫を伴って上洛。 南都東大寺の大仏殿落慶供養へ出席するための上洛だったが、大姫を後鳥羽天皇の妃にすることが真の目的だったとも。 この頃の大姫の病気は小康状態を保っていたのだとか。 この上洛で、頼朝は、丹後局と源通親に接近し、大姫の入内運動を行うのだが・・・ |
頼朝は、平重衡の南都焼討で焼けてしまった東大寺の再建に協力した。 |
1197年(建久8年)7月14日、大姫死去(20歳前後)。 勝長寿院に葬られたものと考えられるが、詳しい事は不明。 |
岩船地蔵堂に祀られている石造地蔵像は、大姫の守本尊と伝えられている。 一説には大姫の妹三幡の墳墓堂とも。 |
常楽寺裏山にある「姫塚」は、北条泰時の娘の墓と伝わるが、一説には大姫の墓ではないかとも。 |
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