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海野幸氏(うんのゆきうじ)は、1184年(寿永3年)1月21日、粟津の戦いで討死した海野幸親の三男といわれている。 本領は信濃国海野庄。 『吾妻鏡』によると、 1183年(寿永2年)3月、源頼朝と木曽義仲の和議成立後、義仲の子義高が鎌倉に送られる際に望月重隆らとともに随行。 志田義広の反抗と 木曽義仲との対立 1184年(元暦元年)4月21日、頼朝から義高殺害の命が下ると、大姫が義高を鎌倉から逃し、幸氏が身代わりとなって義高を装った。 |
常楽寺の木曽塚は、源頼朝に誅殺された木曽義高の首塚と伝えられている。 |
清水八幡宮は、清水冠者と呼ばれていた義高を祀る社。 |
義高の身代わりとなったことで頼朝から監禁されたが、弓馬の技術が認められ御家人となり・・・ 1188年(文治4年)2月28日の鶴岡八幡宮臨時祭の流鏑馬 同年の鶴岡八幡宮放生会の流鏑馬 1189年(文治5年)正月9日の弓始め 1193年(建久4年)8月16日の鶴岡八幡宮放生会の流鏑馬 で射手を務め、武田信光・小笠原長清・望月重隆と並んで弓馬四天王と称された。 1193年(建久4年)5月の富士裾野の巻狩りで起こった曾我兄弟の仇討ち事件では、頼朝を護衛して負傷。 1195年(建久6年)3月の頼朝の上洛では、東大寺の大仏殿落慶供養の惣門警備を務めている。 頼朝の亡き後も弓馬の名人として活躍し、1202年(建仁2年)の源頼家の伊豆・駿河国の巻狩りでは弓矢を帯する射手十人に数えられた。 1237年(嘉禎3年)7月19日には、鶴岡八幡宮の放生会で初めて流鏑馬の射手を務める北条時頼に流鏑馬を指南している。 |
木曽義仲に従って平家を都落ちさせ、1183年(寿永2年)7月28日に入京するが、義仲が後白河法皇と対立し、11月19日には後白河法皇の法住寺殿を焼き討ちするクーデターを起こした。 翌年正月、頼朝の派遣した源義経らに攻められ、粟津の戦いで義仲とともに討死している。 |
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