1184年(寿永3年)1月20日、源範頼と源義経が後白河法皇と対立した木曽義仲を討つため都を攻めます。 義仲は都の防備を固めますが、すでに人望を失っていた義仲に従う兵は少なく、宇治や瀬田で大敗。 たった七騎で都を落ちたのだといいます。 『平家物語』によると・・・ 義仲が向かったのは、今井兼平が戦っている瀬田。 大津の打出の浜(琵琶湖岸)で出会った義仲と兼平は、最後の一戦に臨みます。 義仲が兼平の持っていた旗を掲げると、これを見つけた兵がどこからともなく馳せ集まり、三百騎ほどになったのだとか。 しかし、一条忠頼や土肥実平と戦ううちに徐々に少なくなり、五騎になってしまいます。 五騎の中には巴御前もいたようですが、義仲が逃れるよう伝えると、巴御前は恩田師重を打ち取った後、東国の方へ落ちて行ったのだといいます。 そして、義仲は兼平の勧めによって松原で自害することに。 兼平は義仲が自害するまでの時間をなんとか稼ごうとしますが、義仲は石田為久に追いつかれ、兜の内側を射抜かれ、為久の郎党二人に首を取られてしまいます。 為久が義仲を討ち取ったと名乗りを上げると・・・ 兼平は、太刀の切っ先を口に含み、馬より逆様に飛び降りて、太刀に貫かれて死んだのだといいます。 |
※ | 一条忠頼は武田信義の嫡男。 |
※ | 恩田師重は武蔵国の武将。大力の持ち主だったらしい。 |
義仲を討ち取った石田為久は相模国の武将で三浦一族。 為久は「大一大万大吉」の旗印を使っていたのだといいいます。 のちの関ヶ原の戦いで石田三成も使用しました。 |
宇治川の戦いでは、佐々木高綱と梶原景季が先陣争いを繰り広げました。 宇治川の先陣争い |
範頼が進軍した橋 |
義仲寺は、粟津の戦いで討たれた義仲が葬られた場所と伝えられています。 |
義仲の首は六条河原に晒された後、家臣の手で葬られたのだと伝えられ、八坂の塔に首塚が建てられています。 |
木曽義仲の愛妾・巴御前の供養塔。 |
今井兼平は義仲の重臣。 粟津の戦いで義仲とともに壮絶な最期を遂げました。 |
義仲と兼平が育った木曽の徳音寺には、義仲・義仲の母小枝御前・巴御前・兼平の兄樋口兼光の墓が建てられています。 |
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