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関ヶ原の戦いは、豊臣秀吉の死後に発生した政権の内部分裂に端を発して美濃国の関ヶ原で起こった戦いで・・・ 徳川家康を総大将する東軍と毛利輝元を総大将に担ぎ上げた石田三成を中心とする西軍が激戦を繰り広げた戦い。 三成は、豊臣秀頼のお墨付きや出陣を要請していたようだが、淀殿がそれを許さず、豊臣家は静観の立場をとっている。 |
伏見城の戦い〜関ヶ原の戦いの前哨戦〜 鳥居元忠〜伏見城で討死にした三河武士の鑑〜 細川ガラシャの最期〜関ヶ原の戦い〜 石田三成〜徳川家康に挑んだ関ヶ原〜 大津城〜京極高次の関ヶ原:石田三成生き曝しの城〜 |
1600年(慶長5年)9月15日午前6時頃、徳川家康が桃配山に着陣。 |
東軍は、関ヶ原盆地中央で福島正則を先方とした魚鱗の陣を形成。 西軍は、笹尾山に石田三成・松尾山に小早川秀秋を配して鶴翼の陣を形成。 午前10時頃、松平忠吉・井伊直政が宇喜多隊に発砲したことで合戦が始まった。 |
戦況が把握できない家康は、午前11時頃、石田三成が布陣する笹尾山近くまで本陣を移動。 |
「厭離穢土欣求浄土」は徳川家康の馬印。 誕生地岡崎の大樹寺の和尚・登誉天室が家康に説いた教えなのだという。 |
石田三成の旗印は「大一大万大吉」。 「一人が万人のために、万人が一人の為に力を尽くせば、人々の生は吉となり、太平の世が訪れる」 1184年(寿永3年)、源頼朝の木曽義仲追討で、義仲を討ち取った石田為久が使用した旗印なのだとか。 粟津の戦い |
戦いは、小早川秀秋の寝返りにより西軍は総くずれとなり、12時頃には東軍の大勝に終わった。 戦後、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊が処刑され、豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。 これにより徳川氏の覇権が確立している。 |
清州城は織田信長が尾張国支配の拠点とした城。 関ヶ原の戦いでは東軍の前線拠点となった。 |
関ヶ原の戦い時は豊臣の城だった犬山城は、西軍の拠点となった。 |
関ヶ原の戦い後、石田三成の佐和山城は陥落。 三成は伊吹山麓に潜伏したが、10月1日に京都の六条河原で処刑された。 |
処刑された三成は、大徳寺の塔頭三玄院に葬られた。 葬ったのは、佐和山城にあった三成の母の菩提寺を任せられていた薫甫宗忠と沢庵宗彭だった。 |
関ヶ原は、672年に起こった壬申の乱の舞台ともなった。 壬申の乱は、吉野に下っていた天智天皇の弟・大海人皇子(後の天武天皇)が挙兵し、天智天皇の子・大友皇子を破った戦い。 徳川家康が陣を敷いた桃配山の名は、大海人皇子が村人から献上された桃を兵たちに配ったことによるのだとか。 近江国の園城寺(大津市)は、壬申の乱で敗れた大友皇子の子・大友与多王が、天武天皇の許可を得て創建したのだという。 |
不破関は、壬申の乱後に設置された関所。 1221年(承久3年)、打倒北条義時の承久の乱を起こした後鳥羽上皇は不破関を守らせたと伝えられる。 承久の乱と関ヶ原 |
春王と安王は、1439年(永享11年)、室町幕府六代将軍足利義教に対する反乱(永享の乱)を起こして自刃に追い込まれた鎌倉公方足利持氏の遺児。 二人は、永享の乱後、下野国の日光山に潜んでいたが、1440年(永享12年)、結城氏朝に担ぎ出された結城合戦で捕らえられ、京都に送られる途中の関ヶ原で処刑された。 ここは、関ヶ原の戦いで池田輝政が陣を敷いた場所。 |
関ヶ原の戦い前の6月、徳川家康は会津征伐のため大坂城を出陣。 途中で鎌倉に立ち寄り、鶴岡八幡宮で戦勝を祈願したのだという。 長谷寺では関ヶ原での戦勝を祈願したのだとか・・・ |
鎌倉と徳川家康〜関ヶ原の戦いと星ノ井・鶴岡八幡宮・長谷寺〜 |
岐阜県不破郡関ヶ原町 JR東海道本線「関ヶ原駅」下車 |
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