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大樹寺(だいじゅじ・だいじゅうじ)は、1475年(文明7年)、松平宗家四代当主の松平親忠が松平氏の菩提寺として創建。 正式名称は、成道山松安院大樹寺。 「大樹」は征夷大将軍の唐名。 開山は、増上寺を開いた聖聡の孫弟子・勢誉愚底(せいよぐてい)で、知恩院二十三世の法統をついだ浄土宗の高僧。 本尊は、一光千体阿弥陀如来・如意輪観世音菩薩。 1535年(天文4年)、衰退していた大樹寺を七代当主の松平清康が再興。 江戸時代になると将軍家の位牌所として位置づけられ、1636年(寛永13年)から1641年(寛永18年)にかけて三代将軍徳川家光が大造営を実施し伽藍が整えられた。 県指定の文化財に指定されている総門・三門・鐘楼などは、その時に建立されたもの。 1855年(安政2年)の火災で本堂・大方丈・開山堂などの主要伽藍を焼失したが、翌年には規模を縮小して再建されている。 江戸幕府歴代将軍の位牌が安置されているが、十五代将軍の慶喜は神道式の埋葬を希望したことから置かれていない。 |
1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破ると、今川氏に従っていた徳川家康(当時は松平元康)は、大樹寺に逃れて自害を決意したのだという。 しかし、住持の登誉天室に諭され生き抜く決意をし、誕生地の岡崎城に辿り着いたのだと伝えられている。 |
家康の馬印となった「厭離穢土欣求浄土」は、天室が説いた教えなのだという。 |
人質となった竹千代〜織田・今川の人質だった徳川家康〜 |
関ヶ原古戦場にも「厭離穢土欣求浄土」の旗。 |
総門の先に見えるのは岡崎城。 三代将軍家光は、祖父家康が生誕した岡崎城を望めるように伽藍を整備したのだという。 |
松平家の墓所は、1615年(元和元年)に徳川家康よって再興され、1617年(元和3年)には、二代将軍の秀忠が先祖八代(親氏・泰親・信光・親忠・長親・信忠・清康・広忠)の墓を再建修復した。 画像一番手前は徳川家康の墓標で1969年(昭和44年)に建てられたもので、日光東照宮の宝塔を参考にしているのだという。 |
『徳川実紀』によると・・・ 1616年(元和2年)4月2日、徳川家康は側近の以心崇伝・南光坊天海・本多正純を呼んで、次のように遺言したのだという。 |
〇 | 遺体は久能山に埋葬すること。 |
〇 | 葬儀は江戸の増上寺で行なうこと。 |
〇 | 位牌は三河国の大樹寺に納めること。 |
〇 | 下野国の日光山に小堂を造営すること。 |
〇 | 京都の南禅寺の金地院に小堂を造営すること。 |
久能山東照宮は、家康が埋葬された場所で、家康を祀る東照宮の創祀とされる。 |
増上寺は、徳川将軍家の菩提寺。 |
日光東照宮の奥院には、改葬された家康の廟塔がある。 |
金地院東照宮は、以心崇伝が南禅寺の塔頭金地院に建立。 |
瀧山東照宮は、1646年(正保3年)、三代将軍徳川家光の命により瀧山寺境内に創建された。 ただ、当初は大樹寺境内に建立される予定だったのだという。 瀧山寺境内となった理由は不明だが、岡崎城からみて鬼門(北東)にあたるということも理由の一つなのかもしれない。 |
伊賀八幡宮も大樹寺の開基・松平親忠の創建で、大樹寺とともに松平・徳川家が崇敬した。 徳川家康が祭神として祀られている。 |
徳川家康は、1542年(天文11年)、岡崎城で誕生。 |
家康の側室・西郷局の菩提寺・宝台院の本尊は「白本尊」。 家康の守り本尊だった阿弥陀如来立像で、大樹寺から譲り受けたものなのだという。 |
幼い頃、大樹寺で修行を積んだという暁誉源栄は、家康に認められ、増上寺の法主(指導者)となり、鎌倉の大長寺の第四世となった僧。 家康の側室西郷局の母の菩提寺・貞宗寺を開き、大樹寺の住持となったのだという。 |
宗仲寺は源栄が開いた寺で、家康が久能山から日光山に改葬された際、その棺を運ぶ一行が宗仲寺で休息したのだという。 |
水野信元は、家康の母・於大の方の異母兄。 桶狭間の戦いで今川義元が討たれたことを家康に伝えたとされ、織田信長との清州同盟も仲介したのだという。 1575年(天正3年)の長篠の戦い後、武田氏に内通していたとして大樹寺で誅殺された。 |
水野信元〜徳川家康に誅殺された於大の方の兄〜 石川数正〜小牧・長久手の戦い後に出奔した家康の重臣〜 |
愛知県岡崎市鴨田町広元5−1 名鉄名古屋本線「東岡崎駅」から名鉄バスで「大樹寺」下車、徒歩で約8分 愛知環状鉄道・愛知環状鉄道線「大門駅」から徒歩で約15分 |
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