〜小牧・長久手の戦い後に出奔した家康の重臣〜 |
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石川数正は、河内源氏三代当主の源義家の六男で河内国石川荘を領した源義時を祖とする。 石川康正の子として三河国で誕生し、徳川家康が今川氏の人質として駿府にいる頃から仕えた武将。 1560年(永禄3年)の桶狭間の戦い後、家康(当時は元康)が岡崎城に入って今川氏から独立すると、織田信長との清州同盟、築山殿の奪還などに活躍。 1563年(永禄6年)の三河一向一揆では、父の康正が一揆側に加担するなど家康の家臣の多くが離反する中、数正は浄土宗に改宗して家康に従った。 その後の三方ヶ原の戦い・長篠の戦いなどでも功を挙げている。 1579年(天正7年)、岡崎城を任されていた家康の嫡男信康が切腹すると、信康の後見役だった数正が岡崎城代となる。 本能寺の変直後の伊賀越えでも家康を助けた数正だったが・・・ 小牧・長久手の戦い後の1585年(天正13年)11月13日、岡崎城を出奔して豊臣秀吉に臣従。 1590年(天正18年)の小田原征伐後、信濃国松本10万石を与えられている。 |
数正が秀吉に勧められて出奔したのか、自らの意志で出奔したのかは分かっていない。 ただ、小牧・長久手の戦いは両軍撤退で終わったが、再戦を避けられる状況にはなく、数正は秀吉への従属を支持していたのだという。 しかし、酒井忠次や本多忠勝らが反対。 結果、秀吉と内通しているとの疑いをかけられ、徳川家中での立場が悪化してしまったという説がある。 その他にも、 「信康の切腹事件を機に家康と不仲となった」 「水野信元を誅殺したことで家康の生母於大の方に恨まれてしまった」 などの説があるが、いずれにしても数正は徳川家臣団の中で孤立してしまったらしい。 出奔の前年12月、家康の次男・於義丸(のちの結城秀康)が秀吉の養子となる際、数正の嫡子康長と次男康勝が大坂城まで供をしているようだが、何か関係があるのかもしれない・・・ |
築山殿〜正室を殺害し嫡男信康を自害させた徳川家康〜 松平信康〜切腹させられた徳川家康の嫡男〜 水野信元〜徳川家康に誅殺された於大の方の兄〜 長勝院・お万の方〜結城秀康を産んだ徳川家康の側室〜 於義丸〜徳川家康の次男・結城秀康〜 |
初花肩衝(はつはなかたつき)は、本能寺の変後、家康が手に入れた茶入。 小牧・長久手の戦いの前年、家康は賤ケ岳の戦いの戦勝祝いに初花肩衝を秀吉に贈っている。 その使者となったのは石川数正だった。 |
家康が秀吉に贈った初花肩衝〜使者は石川数和:小牧・長久手の戦い〜 |
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