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1572年(元亀3年)、甲斐国の武田信玄が西上作戦を開始し、遠江国へ侵攻。 10月3日、甲府の躑躅ヶ崎館を発った武田軍は2万7千。 10月13日には只来城を落とし、12月19日には二俣城を落とした(二俣城の戦い)。 12月22日、二俣城を発った武田軍は、徳川家康の浜松城を素通りして進軍。 武田軍の攻撃に備えて籠城策をとっていた家康は、作戦を変更して出撃。 三方ヶ原で合戦となったが・・・ 圧倒的兵力の武田軍に蹴散らされて浜松城へ逃げ帰ったのだという。 このときの徳川軍は8千程度の兵力だったらしい。 |
※ | 三方ヶ原の戦いは、桶狭間の戦い後の三河一向一揆・織田信長が本能寺で横死した本能寺の変後に三河に逃げ帰った伊賀越えと並び、人生最大の危機といわれている。 |
※ | 三方ヶ原の戦いは、三方原台地で行われたが、詳しい場所はわかっていない。 |
浜松城に戻った家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、あえて敵を招き入れる「空城計」(くうじょうのけい)をとった。 この時、徳川四天王のひとり酒井忠次は、櫓の上で太鼓を打ち鳴らし、味方を鼓舞。 追撃してきた武田軍の山県昌景隊は、伏兵を警戒して攻め込まず、引き上げたのだと伝えられている。 |
その後、家康は一矢を報いようと犀ヶ崖付近で野営していた武田軍を奇襲。 これによって武田軍は混乱し、多くの兵が犀ヶ崖の絶壁から転落したのだという。 |
夏目吉信(広次)は、松平氏(徳川氏)譜代の家臣。 三河一向一揆では家康に反旗を翻したが、家康の寛大な措置により赦免された。 それを恩に感じていた吉信は、三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって武田軍に突入して討死したのだと伝えられる。 合戦時、浜松城の留守を任されていた広次は、味方の敗戦が濃厚と知ると、家康のもとへ駆け、退却を進言。 しかし、家康が突撃しようとしたので、家康を逃がすため、武田軍の中に突入していったのだとか。 犀ヶ崖古戦場の向かいに碑が建てられている。 |
本多忠真は、徳川四天王のひとり本多忠勝の叔父。 三方ヶ原の戦いで自ら殿(しんがり)を買って出て、旗指物を左右に突き刺し、「ここから後へは一歩も退かぬ」といって、武田軍に斬り込んで討死したと伝えられている。 忠真の嫡男・菊丸は家康を援護して浜松城に退却したが、父を三河に葬ったあとに出家したのだという。 犀ヶ崖古戦場には、忠真の功績を称えた顕彰碑が建てられている。 |
三方ヶ原で敗れた家康は、浜松八幡宮の楠の洞穴に潜んで武田勢から逃れたのだという。 |
三方ヶ原の戦いに大敗して浜松城に戻った家康が脱いだ鎧を掛けたという伝説がのこされた松。 現在の松は三代目。 |
二俣城は、浜松城の防衛拠点となった城で、家康と武田信玄の激しい争奪が繰り広げられた。 家康の嫡男松平信康が自害した城でもある。 |
清瀧寺は、徳川家康が松平信康の廟所として建立した寺院。 信康廟には、三方ヶ原の戦いで討死した中野正照・青木吉継の墓もある。 |
1560年(永禄3年)、桶狭間の戦い後、今川氏から独立した家康は、誕生地の岡崎城を拠点としたが、1568年(永禄11年)に浜松城を攻略して拠点を移した。 |
武田信玄との戦いは家康の最大の敗北といわれ、浜松城に戻った家康は自分の姿を描かせて、その絵を大切にし自らを戒めたのだという。 岡崎城に置かれている「しかみ像」は、家康が描かせた「徳川家康三方ヶ原戦役画像」を基にして製作された石像。 ただ、近年の研究では・・・ 「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は、紀州徳川家から尾張徳川家に伝わった家康の御影とされている。 |
徳川家康の「しかみ像」〜実は家康の御影だった〜 |
三方ヶ原で徳川家康を破った武田信玄は、三河国に進軍するが病に倒れ、長篠城で療養した後、甲斐国へ撤退。 4月12日、その途中で死去している。 |
3年間、死を隠すよう遺言した信玄は、甲府の躑躅ヶ崎館近くに葬られ、3年後の1576年(天正4年)4月16日、菩提寺の恵林寺に葬られたのだという。 |
武田信玄の跡を継いだ勝頼は、1574年(天正2年)に遠江国の高天神城を攻略し、翌1575年(天正3年)4月には1万5千の兵を率いて三河国の長篠城を包囲するが・・・ 長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れ、1582年(天正10年)の甲州征伐で滅亡することとなる。 |
浜松市北区根洗町(三方原墓園駐車場敷地内) JR東海道本線「浜松駅」から遠鉄バス45系統で「三方原墓園」下車 |
浜松市中区鹿谷町25−10(犀ヶ崖資料館) JR東海道本線「浜松駅」から遠鉄バス45系統で「さいが崖」下車 |
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