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徳川四天王は、徳川家康の側近として仕え、大きなな功績を立てた四人の武将。 徳川四天王像は、家康が誕生した岡崎市の中央緑道に置かれているもの。 |
徳川四天王の中で最年長。 徳川家康より15歳年上。 忠次の先祖は、松平氏の祖・松平親忠(家康の先祖)に繋がるのだという。 武田信玄との三方ヶ原の戦いでは、大敗して浜松城に戻った後、あえて敵を招き入れる「空城計」をとり、櫓上から太鼓を打ち鳴らして味方を鼓舞。 追撃してきた武田軍の山県昌景隊は、伏兵を警戒して攻め込まず、引き上げたのだとか。 忠次が太鼓を打ち鳴らす勇姿を再現。 |
初陣から57回の戦を経験したというが、傷一つ負わなかったという本多忠勝。 二俣城の戦いの前哨戦となる一言坂の戦いでは、武田信玄に大敗した家康を浜松城に撤退させるため殿(しんがり)を務め、一兵も損じることがなかったのだという。 この時、武田信玄の近習・小杉左近は 「家康に過ぎたるものが2つあり、唐の頭に本多平八」 と詠んだのだとか・・・ 忠勝が敵陣に攻め入り威嚇した馬上の勇姿を再現。 |
本多忠勝と同い年の榊原康政。 小牧・長久手の戦いで、羽柴秀吉を非難する檄文を書き、秀吉に「康政の首をとったものには10万石を与える」と言わせた武将。 その内容は・・・ 「それ羽柴秀吉は野人の子、もともと馬前の走卒に過ぎず。 しかるに、信長公の寵遇を受けて将師にあげられると、その大恩を忘却して、子の信孝公を、その生母や娘と共に虐殺し、今また信雄公に兵を向ける。 その大逆無道、目視する能わず、我が主君源家康は、信長公との旧交を思い、信義を重んじて信雄公を助けんとして決起せり」 静の姿ながら熱い思いをたぎ らせる勇姿を再現。 |
徳川四天王の中で最も若い井伊直政。 少年期を家康の誕生伝説が残された鳳来寺で過ごし、家康に仕えると武田信玄の精鋭部隊「赤備え」を継承。 小牧・長久手の戦いでは、「井伊の赤備え」の名を天下に轟かせ、「井伊の赤鬼」として諸大名から恐れられたのだという。 関ヶ原の戦いで「先陣抜け駆け」の突撃をした際の勇猛果敢な馬上の勇姿を再現。 |
徳川家康は、1542年(天文11年)、岡崎城で誕生。 |
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