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桶狭間の戦い後、今川氏から独立した松平家康(徳川家康)が三河国統一のため、不入特権を有していた三河三ヶ寺(本證寺・上宮寺・勝鬘寺)と対立して起こったのが三河一向一揆。 |
※ | 三河三ヶ寺は、浄土真宗の本願寺教団の拠点。 |
※ | 寺・門前町は武士の支配権が及ばない守護不入の特権を有していた。 |
1562年(永禄5年)、織田信長と同盟(清州同盟)を結んだ家康は、三河を領国化するための政策を進めていくが、それは貢祖・軍役を強いることで、国侍や百姓の負担が大きくなるということ。 1563年(永禄6年)になると、家康の政策に不満をもった酒井忠尚が挙兵して上野城に籠城。 諸説あるようだが・・・ この時に家康が上宮寺から兵糧米を奪い、不入特権を侵害したことで、三河三ヶ寺と本宗寺の門徒が一斉に蜂起したのだといわれている。 |
家康の拠点・岡崎城のある西三河の地には、応仁年間(1467−1469)に本願寺を再興した蓮如が教化のために滞在したと伝えられ、本證寺に残る1549年(天文18年)の門徒連判状には115名もの武士が署名している。 |
この連判状は、本願寺と本證寺を守る約束を交わしたもので、石川清兼をはじめとする松平氏家臣の名も連ねられている。 そのため、1563年(永禄6年)の一揆には、家康の家臣の多くが加担した。 一揆方の中心人物は本證寺の空誓。 一揆に加担した家康家臣は、本多正信・本多正重・滝川一益・渡辺守綱・蜂屋貞次・夏目広次(吉信)・内藤清長・加藤教明・石川康正・榊原清政など。 これに反松平勢力の吉良氏・荒川氏、松平宗家に敵対していた桜井松平家・大草松平家も挙兵し一揆方に加担している。 ただ、近年の研究では、酒井忠尚の挙兵や吉良氏らの挙兵は一揆とは関係ないとする説もある。 両者は、家康を標的としているという点で一致しているが、忠尚や吉良氏らが本願寺門徒や一揆に加担した者と連絡を取っている形跡はないのだという。 参考までに、反松平勢力が挙兵した時期は判っているが、一揆が起こった時期は判明しておらず、反松平勢力が挙兵した後のことなのかもしれない・・・ |
※ | 酒井忠次は叔父の酒井忠尚が家康に反旗を翻したが、家康に付いた。 |
※ | 本多正信ら本多一族が家康に反旗を翻す中、本多忠勝は家康に付いて戦っている。 |
※ | 兄の榊原清政が一揆側に加担したが榊原康政は、家康に付いて武功を挙げている。 |
※ | 父の石川康正が一揆側に加担した石川数正は、浄土宗に改宗して家康に付いたのだという。 |
一揆方の中心人物とされる空誓の本證寺周辺では、小川安政の戦いがあった。 この戦いで一揆方が劣勢になると、本證寺に攻め込まれるのを危惧した円光寺の順正は 「本證寺の空誓とは我のことなり」 と名乗って自害。 欺かれた家康軍は、本證寺に攻め込まずに退いたのだという。 |
翌年1月、家康は上和田の戦いに敗れ、山中八幡宮の洞窟に身を隠して一揆軍の探索を逃れたのだという。 この戦いで、銃弾を受けるほど窮地に追い込まれた家康だったが、1月15日、岡崎城に攻め込んできた一揆軍を馬頭原で破ったことにより家康が優位に立つことに。 その後、和議に持ち込み、一揆の解体に成功した。 三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い・伊賀越えと並んで家康の三大危機とされる。 |
不入権の確認と一揆に加担した者の助命を条件として、成立した和議だったが・・・ 一揆に加担した者が帰参したり国外退去となったことで門徒が農民主体になると、家康は関係寺院に対して一方的に本願寺派からの離脱を要求。 寺側は「以前のように不入権を認める」という起請文は何だったのかと反発するが、 家康は「以前のようにというのは、寺院がなかった頃の原野に戻すということ」と言い放ったのだと伝えられている。 その後、一向宗の寺院は多くが破却され、坊主衆は国外追放となり、一向宗は三河国での活動を禁じられることとなった。 空誓も加茂郡菅田和(豊田市)へ退去している。 その一方で、一揆に加担した家臣に対して寛大な取り計らいをしたことで、家臣団の結束を固めることに成功したのだという。 |
一揆解体後、家康の寛大な措置により赦免された夏目吉信(広次)は、その恩に報いるため、三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって武田軍に突入し、討死したのだと伝えられる。 |
帰参が許された本多俊正・正信・正重 松平家康に敵対した桜井松平家と大草松平家 松平家康に敵対した吉良義昭 |
一揆から20年後・・・ 1583年(天正11年)、石川妙春尼の尽力で一向宗門徒が赦免され、天正13年には本證寺などの住持と坊主衆の還住が認められている。 妙春尼は家康の母於大の方の妹。 |
一揆の中心人物・空誓と徳川家康 |
岡崎城は、徳川家康が誕生した城。 桶狭間の戦い後、今川氏に支配されていた岡崎城を奪還した家康は、織田信長と清州同盟を結び三河国支配へと動き出した。 上ノ郷城合戦で今川氏に属していた鵜殿長照を滅ぼし、三河一向一揆を鎮めて、ほぼ三河国を統一した家康は、遠江国へ侵攻。 今川氏真が籠る掛川城を開城させて、本拠を浜松城に移すこととなる。 |
増上寺の安国殿に祀られている「黒本尊」(くろほんぞん)は、家康の家康の守り本尊だった阿弥陀如来立像。 この阿弥陀如来に祈願して三河一向一揆を鎮めることができたのだとか。 源義経が三河国岡崎の長者に預けていたものなのだという。 |
本願寺は、浄土真宗開祖の親鸞の廟堂(墓地)の創建に始まる。 石山本願寺の時代には、周囲に堀や土塁が築かれた城郭として存在し、織田信長と対立した十一世の顕如は城郭に籠って10年もの間戦っている。 のちに豊臣秀吉の命により京都に移転するが、家康が顕如の長男・教如に新たな寺地を寄進したことで、東西に分立。 三河一向一揆に苦しんだ家康が、本願寺教団を分裂させ弱体化を図ったという説もある。 それを献策したのが三河一向一揆で家康に反旗を翻した本多正信だったとも・・・ |
西本願寺 |
東本願寺 |
三河一向一揆の中心人物だった空誓は、後に家康に接近し、本願寺教団の三河国内での地位確立に尽力。 本願寺の東西分立では、東本願寺に属している。 |
大坂城は、石山本願寺があった地に築かれた城。 |
石山本願寺は、本願寺第八世の蓮如によって開かれた本願寺教団の本寺。 十一世の顕如の時代には本願寺教団の最盛期となり、各地の一向一揆を掌握して、大名に匹敵する権力を持つようになる。 武田信玄の継室三条夫人の妹如春尼は、顕如の妻。 1571年(元亀2年)、信玄は、石山本願寺・近江国の浅井長政・越前国の朝倉義景らとともに織田信長包囲網を構築。 一方、信長は、2月に浅井長政支配の佐和山城を落とし、5月に長島一向一揆を制圧、9月に比叡山延暦寺を焼き討ちするなど、反織田勢力の鎮圧に努めていたが・・・ 翌1572年(元亀3年)10月、信玄が信長の同盟者である徳川家康の遠江国への侵攻を開始。 一言坂の戦い・二俣城の戦い・三方ヶ原の戦いなどで家康を破って三河国へ進軍し、織田・徳川を窮地に追い込んだ。 しかし、翌1573年(元亀4年)4月12、信玄が死去。 武田軍は甲府に撤退している。 |
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