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延暦寺は、788年(延暦7年)、最澄によって開かれた天台宗総本山。 浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮などの鎌倉新仏教と呼ばれる宗派の祖が学んだ地。 最盛期には3000を越える寺社が甍を並べていたと伝えられているが、1571年(元亀2年)、織田信長の焼き討ちで堂塔伽藍はことごとく炎上。 その後、豊臣秀吉や徳川家康らによって再興された。 現在は約500ヘクタールの境内地に約150の堂塔が建ち並んでいる。 |
延暦寺という名称は、比叡山山内にある東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)にある堂塔の総称。 各地域に本堂が置かれている。 |
僧兵とは、僧形の武者。 平安末期には強大な武力集団となり、延暦寺や園城寺、奈良の興福寺や東大寺を拠点として、寺院同士の勢力争いに参加したり、朝廷や摂関家に対して強訴を繰り返した。 白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたというが、山法師というのが比叡山の僧兵のこと。 興福寺の僧兵は衆徒と呼ばれていたらしい。 |
『吾妻鏡』によれば、1186年(文治2年)の5月から閏7月頃にかけて、比叡山の僧兵:俊章・承意・仲教らが、逃亡中の源義経の庇護をしていることが明らかとなっている。 後白河法皇は、閏7月16日、九条兼実をはじめとする公卿らに事態収拾を協議させ、天台座主・全玄に直ちに探し出して逮捕するよう命じている。 その結果、義経を匿った3人の僧兵が差し出されたとのこと。 比叡山を去った義経は、9月には興福寺に匿われていたことが判っている。 |
源義経を匿った比叡山の僧兵 源義経を匿った興福寺と鎌倉に呼び出された聖弘 |
護良親王は、後醍醐天皇の皇子。 2度にわたって天台座主となり大塔宮と称される。 |
三千院 (大原) |
念仏寺 (大原) |
護良親王が入室したのは梶井門跡(現在の三千院)。 大原には親王の創建といわれる念仏寺がある。 |
鎌倉宮 |
護良親王墓 |
鎌倉幕府滅亡後、足利尊氏と対立した護良親王は、鎌倉の東光寺に幽閉された後、殺害された。 親王が幽閉された東光寺の跡には、明治天皇によって親王を祀る鎌倉宮が創建されている。 |
大塔宮と呼ばれた護良親王〜なぜ大塔宮なのか?〜 |
日吉大社は、伝教大師最澄が延暦寺の守護神とした社。 最澄は日吉の神々を山王と呼んで信仰したのだという。 比叡山の僧兵が強訴のために担ぎ出した神輿は日吉大社のものだった。 |
1147年(久安3年)6月、平清盛が祇園社で起こした祇園乱闘事件。 当時、祇園社は延暦寺の末寺だったことから、忠盛・清盛父子の流罪を要求する強訴が行われた。 |
赤山禅院は、慈覚大師円仁の遺言により赤山大明神(泰山府君)を勧請したことに始まる延暦寺の塔頭。 平安京(御所)の表鬼門(東北)を守護する寺院 |
〜「見立て」の思想で造営された上野寛永寺〜 |
江戸城の鬼門の守護として天海が開いた上野寛永寺は、比叡山や清水寺をはじめとする京都周辺の寺社を模して造営されたのだという(見立ての思想)。 寛永寺の山号は、東の比叡山という意味の「東叡山」。 |
寛永寺の三代貫主になったのは、後水尾天皇第三皇子の守澄法親王。 法親王は、日光山の門主、延暦寺の貫主も兼ねた。 以後、幕末の十五世公現入道親王(北白川宮能久親王)まで、皇子または天皇の猶子が寛永寺の貫主を務め、原則として、東叡山・日光山・比叡山の三山を管掌することから「三山管領宮」とも呼ばれていた。 |
滋賀院 |
慈眼堂 |
滋賀県大津市坂本本町4220 |
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