鎌倉手帳(寺社散策)

鎌倉検定 鎌倉の紅葉



鎌倉と後醍醐天皇

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朝廷内の対立鎌倉幕府滅亡

建武の新政南北朝時代


 後嵯峨上皇が院政を行っていた時代、天皇に即位したは第2皇子の後深草天皇(第89代)。

 しかし、その後、上皇の意向もあって、第7皇子の亀山天皇(第90代)に譲られる。

 そして、上皇は、亀山天皇の子孫が皇位を継承していくよう遺言して崩御したことから、後深草(持明院統)と亀山(大覚寺統)との間で対立が起こる(参考:文保の和談)。



〜治天の君とは・・・〜

 「治天の君」は、「院政」を行う上皇のことで、自分の皇子が天皇にならなければ「治天の君」にはなれない。

 つまり、亀山の皇子が天皇になるということは、後深草は「治天の君」にはなれないということ。

 最終的には、鎌倉幕府によって、両者の子孫がほぼ10年を目処に交互に皇位を継承し、「院政」を行うよう仲介がなされている。





後醍醐天皇
後醍醐天皇


 このような中、幕府への反感をもつ後醍醐天皇が即位。

 後宇田法皇に代わり、天皇による「親政」を開始する。

 1324年(正中元年)、後醍醐天皇による討幕計画が発覚し(「正中の変」)、後醍醐天皇の側近であった日野俊基、日野資朝が捕らえられ、俊基は許されるが、資朝は佐渡に流された(この時、後醍醐天皇への処分はなし。)。

 後醍醐天皇はその後も討幕を企て、1331年(元弘元年)にはその計画が発覚し(「元弘の変」)、日野俊基は再び捕らえられ、後醍醐天皇は隠岐に流された。

 捕らえられた俊基は、翌年、葛原ヶ岡で斬首され、「正中の変」で佐渡に流されていた資朝も斬首されている。



足利尊氏
リンクボタン足利尊氏


 その後、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、足利尊氏新田義貞などが味方したこともあって、1333年(元弘3年)、鎌倉幕府を滅ぼし、「建武の新政」を開始する(参考:鎌倉幕府の滅亡)。

 しかし、足利尊氏が裏切ったことによって、後醍醐政権は崩壊し、朝廷も南北(大覚寺統と持明院統)に分裂してしまう(参考:文保の和談)。

 足利尊氏は、室町幕府を開き、自らが擁立した北朝の光明天皇より征夷大将軍に任ぜられている。

 一方、後醍醐天皇は吉野に退いて南朝を成立させ、北朝と対立し、以後、1392年まで南北朝の時代が続くこととなる。



吉野山
リンクボタン六波羅探題跡

鎌倉幕府の出先機関六波羅探題は足利尊氏らによって滅ぼされた。
稲村ケ崎
リンクボタン稲村ヶ崎

新田義貞は稲村ヶ崎を突破して鎌倉幕府を滅ぼした。


吉野山
リンクボタン吉野山

後醍醐天皇が南朝をたてた吉野山
吉野:後醍醐天皇塔尾陵
リンクボタン後醍醐天皇塔尾陵

後醍醐天皇の勅願寺・如意輪寺にある陵墓。



リンクボタン後醍醐天皇の倒幕計画と日野俊基(正中の変・元弘の変)

リンクボタン後醍醐天皇の討幕計画と宝戒寺開山の円観慧鎮(元弘の変)









日野俊基の墓
リンクボタン日野俊基の墓


葛原岡で斬首された日野俊基の宝篋印塔。
日野俊基終焉の地
リンクボタン日野俊基
終焉の地碑


葛原岡神社本殿の横に置かれている碑。



稲村ヶ崎
リンクボタン稲村ヶ崎

 新田義貞の鎌倉攻めの伝説が残された史跡。



浄光明寺
リンクボタン浄光明寺

足利尊氏が後醍醐天皇を裏切る覚悟をしたという寺。
宝戒寺
リンクボタン宝戒寺

北条氏の菩提を弔うため創建された寺。



鎌倉幕府滅亡

新田義貞の鎌倉攻め





〜後醍醐天皇の第三皇子〜

 鎌倉宮の祭神護良親王は、後醍醐天皇の第三皇子。

 鎌倉に幽閉され悲運の最期を遂げた。


護良親王
リンクボタン護良親王



〜後醍醐天皇の皇女・・・用堂尼〜

 東慶寺第五世の用堂尼は、後醍醐天皇の皇女。

 護良親王の菩提を弔うために東慶寺に入ったのだといわれている。

 江戸時代には、護良親王土牢理智光寺東慶寺に管理されていた。

 東慶寺には、護良親王の幼名「尊雲法親王」が書かれた位牌が祀られている。


用堂尼の墓
リンクボタン用堂尼の墓
(東慶寺)





鎌倉宮
リンクボタン鎌倉宮
葛原岡神社
リンクボタン葛原岡神社


 鎌倉宮は、鎌倉に幽閉され悲運の最期を遂げた後醍醐天皇の皇子護良親王を祀る神社。

 葛原岡神社は、後醍醐天皇に仕えた朝臣日野俊基を祀る神社。









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