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新田義貞は、源義家の子義国を祖とする源氏。 上野国新田荘(現在の群馬県太田市)を領した新田家八代当主。 1333年(元弘3年)5月8日、新田荘の生品神社で討幕の挙兵をした義貞は、小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いで幕府軍を破って進軍。 5月18日には鎌倉攻めを開始。 隊を三隊に分け、本隊は仮粧坂、大舘宗氏と江田行義の部隊は極楽寺坂、堀口貞満、大島守之の部隊が巨福呂坂から攻め入った。 これに対して幕府は、金沢貞将を仮粧坂、大仏貞直を極楽寺坂、赤橋守時を洲崎(巨福呂坂)に配置。 |
後醍醐天皇の綸旨を受けた新田義貞は、生品神社で挙兵。 |
新田義貞が挙兵する前日、京都では六波羅探題が落とされ、北条仲時は蓮華寺で自刃。 |
鎌倉を攻める新田義貞は、小動神社で戦勝を祈願したと伝えられている。 |
十間坂 |
日坂 |
十間坂と日坂は、新田軍が通った古戦場。 |
最初に鎌倉軍の守りが崩れたのが洲崎。 洲崎の戦いは5月18日早朝から一日一夜にして65度の合戦があったという。 洲崎を守っていたのは十六代執権赤橋(北条)守時。 戦いに敗れた守時は、侍大将の南条高直に、 「一度の敗戦で幕府(北条)の命運が尽きるとは思わないが、自分はここで潔く腹を切ろうと思う」 といって自害したのだという。 |
洲崎古戦場跡 |
泣塔 |
赤橋守時が切腹すると南条高直も続き、90余名が折り重なって死んでいったのだと伝えられている。 泣塔は、洲崎の戦いでの戦死者の供養塔といわれている。 |
供養塔 (等覚寺) |
供養塔 (御霊神社) |
極楽寺坂を守っていたのは大仏(北条)貞直。 貞直は北条一門の大仏流。 約2万騎で極楽寺坂を支え、新田軍の侍大将大舘宗氏に突破されるが、態勢を立て直して反撃し、宗氏を討ち取った。 |
稲瀬川 |
十一人塚 |
5月19日、新田軍の侍大将大舘宗氏は、極楽寺坂を突破するが、稲瀬川付近で大仏貞直軍の反撃に遭い宗氏以下11人が討死した。 十一人塚は、討死した11人が葬られた所と伝えられている。 大仏貞直の家臣本間山城左衛門は、貞直の勘気を蒙って出仕を禁止されていたが、新田軍の大将大舘宗氏を討ち取り、 「これで多年の御恩に報いることができました」 といって切腹したのだという。 |
仮粧坂を攻めていた新田義貞は、宗氏の死によって指揮系統が失われた極楽寺坂に転戦。 5月20日、稲村ヶ崎の聖福寺の谷に布陣。 |
5月21日未明、新田義貞は稲村ヶ崎を突破。 新田軍は、浜辺の家々を焼き払い、稲瀬川の東西にも火を放ち、浜風にあおられた火が燃え広がる中を乱入し、由比ヶ浜では激戦が繰り広げられた。 火は執権館付近にも及び北条高時は東勝寺に引き籠った。 極楽寺坂を守っていた大仏貞直は、次第に手勢も少なくなり、家臣の中には切腹する者も出てきた。 それを見た貞直は、 「千騎が一騎になるまで戦うのが武士の本文」 といって切腹した者を罵ったのだという。 そして、5月22日、わずかな手勢で新田義貞の弟脇屋義助の陣になだれ込んで戦死。 |
稲村ヶ崎には、「新田義貞が黄金の太刀を海に投げ込み龍神に祈った」 という伝説が残されているが、引潮の時を狙って、干潟を通って突破したと考えるのが妥当なのかと。 一方で、干潟を通ったのではなく霊山を越えて鎌倉に乱入したという説もある。 いずれにしても、この時すでに巨福呂坂、仮粧坂、極楽寺坂などからもかなりの兵が鎌倉に乱入していたと考えられ、幕府軍は挟み撃ちされる状況だったのかもしれない。 |
九品寺は、鎌倉に突入した新田義貞が本陣を構えた場所といわれ、鎌倉で唯一の新田義貞ゆかりの寺。 |
鎌倉十橋の一つに数えられる乱橋は、幕府軍が乱れ始めた場所ということで名付けられたのだとか・・・。 |
長崎高重は、得宗家の内管領長崎高資の嫡男。 新田義貞の挙兵以来、各地で先陣を務め、義貞が鎌倉に乱入してからは、東勝寺に避難していた北条高時に近づく敵を追い払っていた。 一度東勝寺に戻った高重は、高時に切腹の覚悟を伝え、 「もう一戦してまいりますので、高重が帰ってくるまで自害をしませんように」 といって再び戦場へ。 最後の戦いに臨む長崎高重は、材木座の弁谷にあった崇寿寺の南山和尚に 「武士とはなにか。死に臨んでどうあるべきか」 を問うと、南山和尚は 「剣を振るって前進あるのみ」 と答えたのだという。 高重は、たった150騎余の兵で、義貞ただ一人を狙って戦うが、義貞軍は3000騎余。 奮戦したが義貞を討つことは叶わず東勝寺へ引き上げたのだと伝えられている。 |
弁谷(べんがやつ)の崇寿寺は、1321年(元享元年)に北条高時が建てた寺で、五山・十刹に次ぐ格式である「諸山」に列せられていたという。 |
1333年(元弘3年)5月22日、北条高時と一族870名が東勝寺で自刃。 最後の戦いから東勝寺に戻った長崎高重は、戦いの様子を高時に報告した後、自らが自害してみせたのだと伝えられている。 また、金沢(北条)貞将は、山ノ内での戦いに敗れた後、東勝寺の高時を訪れて最後の挨拶をし、高時から最後の褒美として、六波羅探題の両探題職と相模国の守護職を与えられたと伝えられている。 |
北条高時が東勝寺で自刃したことにより鎌倉幕府は滅亡した。 高時の長男・邦時は、伯父の五大院高繁に託されたが、伊豆山に向かう途中で高繁に裏切られて捕えられ、5月29日に斬首された。 次男の時行は、鎌倉を逃れて信濃の諏訪頼重のもとで育てられるが、2年後の1335年(建武2年)、頼重に担がれて挙兵(中先代の乱)。 一時鎌倉を占拠したが足利尊氏に攻められて逃亡。 のちに南朝(大覚寺統)に味方して各地で戦うことになるが、1353年(正平8年)5月20日に捕らえられて、龍口で処刑された。 |
鎌倉簡易裁判所にある供養塚は、新田義貞の鎌倉攻めの犠牲者のものではないかと考えられている。 |
北条一族が葬られたの考えられている釈迦堂ヶ谷やぐら群の発掘調査で発見された五輪塔の地輪。 |
東勝寺で自害した北条高時の首を、新田軍に渡してはなるまいと逃げまわっていた家来。 そこへ地蔵尊が現れて、貝を吹き鳴らしながら瑞泉寺の裏山に案内してくれたのだという。 その地蔵尊が天園ハイキングコースにある貝吹地蔵なのだとか・・・。 |
北条首やぐら |
お塔やぐら |
貝吹地蔵の周辺には北条高時をはじめとする北条一族を葬ったとされる北条首やぐらやお塔やぐらが残されている。 |
1965年(昭和40年)、北条一族と新田勢の合戦で戦死した者の遺骨が由比ヶ浜から報国寺に改葬されている。 |
宝戒寺は、後醍醐天皇が足利尊氏に命じ、北条一族の霊を弔うために建立させた寺。 1335年(建武2年)に執権館跡に創建された。 |
北条一族の供養塔 |
徳祟大権現堂 |
鎌倉幕府が滅亡した5月22日には、北条一族慰霊供養の「徳祟大権現会」が執り行われる。 |
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