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「五山」とは、中国の制度にならったもので、禅宗寺院の格式を表したもの。 鎌倉時代に北条氏によって導入された。 |
〜鎌倉幕府による禅宗寺院の建立と五山〜 |
鎌倉では、南宋で修行を積んだ栄西によって持ち込まれた「臨済宗」が発展し、北条時頼や北条時宗などによって大寺院が建立された。 五山の制度がいつ取り入れられたのかは定かではないが、1299年(正安元年)に九代執権北条貞時は浄智寺を五山に列するよう命じている。 また、どの寺院が五山に列せられていたのかも定かではないが、鎌倉の禅宗四大寺である建長寺、円覚寺、壽福寺、浄智寺と京都の建仁寺が五山に列せられていたと考えられる。 当時の禅宗寺院の規模については、1323年(元亨3年)に行われた北条貞時の十三回忌供養に参列した僧侶の数で検討がつけられる。 |
壽福寺 1200年(正治2年)創建 |
建仁寺(京都) 1202年(建仁2年)創建 |
建長寺 1253年(建長5年)創建 |
円覚寺 1282年(弘安5年)創建 |
浄智寺 1281年(弘安4年)頃創建 |
※ | 京都の建仁寺は二代将軍源頼家の支援によって創建された寺。 開山は栄西。 頼家の失脚後は、三代将軍源実朝が大旦那となり、諸堂が整備された。 梶原景時の妻による三重塔が建立されていたという。 |
〜鎌倉幕府滅亡後の五山〜 |
後醍醐天皇による建武の新政下では、1334年(建武元年)、京都を中心に五山が定められた。 |
一位:南禅寺 二位:建長寺 三位:円覚寺 四位:東福寺 五位:建仁寺 (準第一位:大徳寺) |
室町幕府を開いた足利尊氏は、1341年(暦応4年)、五山を武家中心のものに改めた。 |
一位:建長寺 ・ 南禅寺 二位:円覚寺 ・ 天龍寺 三位:壽福寺 四位:建仁寺 五位:東福寺 準五山:浄智寺 |
1358年(延文3年)頃、室町幕府二代将軍足利義詮は、準五山だった浄智寺を五位に格上げし、浄妙寺と万寿寺(京都)を新たに五山に列している。 |
1386年(至徳3年)、室町幕府三代将軍足利義満は、南禅寺を五山之上に置き、鎌倉五山と京五山を決定した。 この決定が最終的なものとなる。 |
第一位 建長寺 |
第二位 円覚寺 |
第三位 壽福寺 |
第四位 浄智寺 |
第五位 浄妙寺 |
第一位 天龍寺 |
第二位 相国寺 |
第三位 建仁寺 |
第四位 東福寺 |
第五位 万寿寺 |
禅宗寺院の隆盛は、「五山文学」を生んだ。 五山文学とは、禅僧による法語や詩、日記などのこと。 建長寺に残されている蘭渓道隆の「法語規則」は国宝。 詩文では、義堂周信の「空華集」や絶海中津の「蕉堅藁」が知られている。 禅僧は外交文書の起草においてもなくてはならない存在となっていた。 |
鎌倉時代から室町時代にかけては、禅僧の「頂相」(ちんぞう)が盛んに制作されるようになる。 「頂相」とは、禅僧の肖像画、または、彫刻のことで、師が弟子に法を伝えた証として制作された。 建長寺に残されている「蘭渓道隆像」(肖像画)は国宝。 円覚寺の「仏光国師坐像」、瑞泉寺の「夢窓国師坐像」、建長寺塔頭正統院の「高峰顕日坐像」などの頂相彫刻は、国の重要文化財に指定されている。 頂相の他にも、建長寺や円覚寺の「仏涅槃図」、「五百羅漢図」などの多くの仏画が描かれ、水墨画のルーツになったともいわれている。 |
※ | 建長寺・円覚寺の「宝物風入」では、多くの美術品を観ることができます。 |
五山に次ぐ禅宗寺院の格式を表すものとして「十刹」がある。 五山制度と同じく鎌倉時代に成立したものと考えられ、室町時代になると天下十刹が定められ、五山と同じように変動した後、京都と関東にそれぞれ10ずつの寺院が定められた。 鎌倉に残る寺院としては、瑞泉寺、大慶寺が関東十刹。 廃寺となった禅興寺も関東十刹の一つだったが、現在は支院の明月院がその名跡を管理している。 その他、鎌倉の寺院では、東勝寺(廃寺)・万寿寺(廃寺)・興聖寺(廃寺)・善福寺(廃寺)・法泉寺 (廃寺)が関東十刹に列せられていた。 「諸山」は、「五山」、「十刹」に次ぐ格式を表すもの。 鎌倉では、北条高時が創建した弁谷の崇寿寺(廃寺)が「五山」に次ぐものとして定められ、それが「諸山」の最初であるといわれている。 |
瑞泉寺 |
大慶寺 |
明月院 (禅興寺跡) |
本朝十刹第一位 (明月院石碑) |
鎌倉五山や京都五山にならって武田信玄が定めた甲府五山は、東光寺・能成寺・長禅寺・円光院・法泉寺。 |
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