|
梶原氏は、桓武平氏の血をひく坂東八平氏の一つ鎌倉氏の一族。 鎌倉景通の嫡男景久が相模国鎌倉郡梶原に住んで梶原氏を称したことに始まるとされるが、その家系については諸説あって不明な点が多い。 鎌倉権五郎景政が居住した旧地に梶原氏が居住したともいわれ、景政を祖としているともいわれる。 代々源氏に仕えてきたが、1159年(平治元年)の平治の乱で源義朝が平清盛に敗れてからは、平家の家人として過ごしてきた。 |
村岡御霊神社 (藤沢市) |
梶原御霊神社 (鎌倉) |
村岡御霊神社は、鎌倉氏の先祖・平良文が創建した社。 梶原御霊神社は、梶原景時創建と伝えられている。 |
高望王流桓武平氏 |
1180年(治承4年)8月、以仁王の令旨をうけて源頼朝が挙兵すると、景時は一族で平家方の大庭景親に与したが、石橋山の戦いに敗れて山中に隠れ潜む頼朝を発見しながら見逃したとされている。 その後、頼朝は、真鶴岬から安房国にわたって再挙。 大軍を従えて鎌倉入りを果たしている。 石橋山の戦い後、景時が何処で何をしていたのは不明だが、『吾妻鏡』によると、12月に土肥実平を通じて鎌倉に赴き、翌年正月11日、頼朝に面会して気に入られて御家人に列したのだという。 のちに、侍所の所司(次官)に任命されている。 |
湯河原町のしとどの窟は、石橋山の戦いに敗れた頼朝が隠れ潜んでいたという巌窟。 頼朝を助けた者たち |
慈円の『愚管抄』によると、1183年(寿永2年)12月、上総広常と双六を打っていた景時は、にわかに盤をのりこえて広常の頸をかき斬り討ち取った。 広常に謀反の企てがあるとの噂があり、頼朝が景時に命じて殺させたものだった。 『吾妻鏡』によると、翌年1月に届けられた広常の願文をみた頼朝は、広常に謀反の心がなかったこと知って後悔したとしているが・・・ のちの上洛で、広常暗殺について後白河法皇に問われた頼朝は、「関東の自立を考えていたから殺害した」と述べている。 上総広常の暗殺 |
梶原太刀洗水は、鎌倉五名水の一つ。 広常を暗殺した景時は、この水で太刀の血のりを洗い流したのだと伝えられている。 |
1184年(元暦元年)1月、頼朝は、弟の源範頼と源義経に木曽義仲追討を命じる。 景時は、嫡男景季とともに宇治川の戦いに参陣。 出陣にあたって頼朝から名馬「磨墨」(するすみ)を与えられた景季は、同じく「池月」(いけづき)を与えられた佐々木高綱と先陣を争い武名を上げた。 |
木曽義仲の追討では、範頼が瀬田を、義経が宇治を攻撃。 敗走した義仲は、1月20日、近江国粟津で最期を遂げている。 |
戦後、安田義定・源範頼・源義経・一条忠頼などの伝令が鎌倉に到着。 その内容は義仲を討ち取ったことのみだったが、景時の伝令は討ち取った敵の死者や捕虜の名簿を持っており、頼朝は景時の判断に感心したのだという。 |
『吾妻鏡』によると、一ノ谷の戦いでの大手の将軍は源範頼、搦手の将軍は源義経。 景時は範頼に従軍。 1184年(壽永3年)2月7日、範頼は生田口から一ノ谷の平家軍を攻め、景時、景季父子は「梶原の二度懸け」と呼ばれる奮戦を見せたのだと伝えられている。 この戦いで平家軍は敗走し、景時と武蔵国児玉党の庄高家らは平重衡を生け捕りにしている。 |
※ | 『平家物語』によると、重衡を生け捕りにしたのは梶原景季と庄高家。 |
生田の森 |
平重衡 とらわれの松跡 |
生田の森は、平家の主力部隊・平知盛、重衡らが率いる平家軍が陣を張り、源氏の主力部隊・源範頼軍を迎え撃った場所。 捕えられた重衡は、土肥実平に預けられていたが、3月10日、鎌倉へ送られるため、梶原景時の護送で京都を発っている。 |
『吾妻鏡』の記録によると、一ノ谷の戦い後、鎌倉に戻っていた景時は、再び平家追討のため出陣し、源範頼に従って西国で活動。 このころ源義経は、頼朝の勘気を受けて追討軍から外されていたが、兵糧不足などで範頼の苦戦が伝えられると、頼朝は再び義経を起用。 1185年(元暦2年)2月16日、義経を先陣とする軍隊が讃岐国へ向けて出陣。 2月18日、暴風雨の中、摂津国から出航した義経は、翌19日に平家が拠る屋島を奇襲し、平家軍を敗走させた(屋島の戦い)。 『平家物語』によると、 出航するにあたっての軍議の場で、景時は「船に進退の自由が効く逆櫓をつける」ことを主張したが、義経は「逃げる事を考えていては良い結果は生まれない」として反対したのだという。 |
大阪市福島区福島には「逆櫓の松址碑」が建てられている。 |
屋島の戦い後、平家一門は瀬戸内海を転々としたのち長門国の彦島に本陣を布いた。 一方の鎌倉軍は、2月1日、源範頼が九州へ上陸して平家軍の背後を遮断。 そして、3月24日、長門国赤間関壇ノ浦の海上で、源義経率いる水軍と平知盛率いる水軍が激突。 源平最後の戦いは、平家の敗北に終わった(壇ノ浦の戦い)。 『平家物語』によると・・・ 軍議で、景時は先陣を希望したが、義経がこれを断ったことで、言い争いとなり、あわや同士討ちになるところだったのだという。 義経と景時の先陣をめぐる争い |
『平家物語』に描かれている「逆櫓の論争」や「先陣をめぐる争い」が本当にあったのかどうかは不明だが・・・ 『吾妻鏡』によると、壇ノ浦の戦い後の4月21日、鎌倉に景時からの伝令が到着。 書状には、義経の独断と勝手な行動が訴えられており、戦いが終わった今、早く鎌倉に帰りたいとも書かれていた。 それに対して頼朝は、5月4日に、義経を勘当したことを伝えている。 義経の不義を訴える景時の書状 その後、義経は平宗盛を護送して鎌倉に凱旋しようとするが、頼朝に鎌倉入りを許されなかった。 11月には頼朝追討の院宣を得て挙兵したが、兵が集まらず都落ちし、奥州平泉に逃れたが、1189年(文治5年)閏4月30日、衣川館で自刃した。 義経の首は、腰越の浜で和田義盛と景時が見分している。 |
源義経の不義の報告は、よく「梶原景時の讒言」と呼ばれる。 讒言とは、他人をおとしいれるため、ありもしない事を目上の人に告げること。 義経の場合が讒言にあたるのかどうかは分からないが、頼朝の弟希義を助けた夜須行宗や、鎌倉武士の鑑と言われた畠山重忠の場合は、どうだったのか・・・。 夜須七郎行宗の場合 畠山重忠の場合 |
諏訪盛澄(金刺盛澄)は諏訪大社下社の大祝。 梶原塚は、盛澄が景時の恩に報いるための諏訪大社下社の上座堂に建てたもの。 |
『吾妻鏡』によると、1192年(建久3年)、侍所別当の和田義盛は、景時に「一日だけその名を貸してくれ」と頼まれ、喪に服さなけれならない理由のあったこともあって、それを許したのだという。 しかし、景時は、そのままその職に居座り続け、義盛が復職したのは、梶原景時の変後のことだった。 ただ、御家人間の話で幕府の重職を決められるはずがなく、景時が別当となったのは、頼朝の意向だったと考えるのが妥当なのかもしれない。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1195年(建久6年)3月12日、頼朝が東大寺の大仏殿の落慶供養に参列した際の事。 僧兵と警固の武士との間で紛争が起こった。 景時がそれを鎮めようとするが、その態度が傲慢無礼だとして一触即発の事態となってしまう。 頼朝は結城朝光に命じて事態を収拾させたが、僧兵達は朝光の態度に感心し「容貌美好、口弁分明」と称賛したのだという。 |
東大寺の僧兵に称賛された結城朝光 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1189年(文治5年)9月7日、捕えられた奥州軍の由利八郎を景時が尋問したが、傲慢な態度に由利が激怒し、何も答えようとしなかった。 代わって、畠山重忠が礼儀を尽くして尋問すると、ありのままを話してくれたのだという。 |
傲慢な梶原景時と礼儀を尽くす畠山重忠〜捕虜の取り調べ:奥州征伐〜 |
1199(建久10年)1月13日に頼朝が死去すると、1月20日には嫡男の頼家が家督を相続するが、4月12日になると頼家の訴訟親裁が停止され、宿老13人による合議制によることが決定される。 景時もその一人に加わった。 しかし、その年の10月、「忠臣は二君に仕えずと申すが・・・頼朝公が亡くなられたときに出家をとどめられたことを大変後悔している・・・」と語った結城朝光を讒言したことで、翌11月には御家人66名の弾劾状が提出されて失脚。 翌年1月20日、上洛途上の駿河国清見関で在地武士に攻められて討死。 『吾妻鏡』は、頼朝・頼家の将軍二代に寵愛されたことを誇って、分を超えた傍若無人の権力をふるい、その悪事が積み重なり、ついにそれが自身に振りかかった」と伝えている。 また、景時の上洛については、鎌倉幕府に反逆するために勅許を得るためだったと伝えている。 |
1200年(正治2年)2月2日、源頼家の命で、景時に加担していた勝木則宗が捕えられることに。 捕縛を命じられた波多野盛通が、侍所に出仕していた則宗を後ろから抱えたのだが・・・ 相撲の達者の則宗は、それを振りほどき、盛通を刺そうとした。 すると、横に座っていた畠山重忠は、則宗の腕を掴み、へし折ってしまったのだとか・・・ |
梶原景時の変で生け捕られた勝木則宗と畠山重忠の美談 |
1201年(正治3年)、京都で城長茂が源頼家追討の宣旨を求めて反乱を起こすと、それに呼応して越後国で甥の城資盛と妹の板額御前が反乱を起こしている(建仁の乱)。 城長茂は、景時の庇護を受けていた越後国の武将。 |
梶原氏の出身という無住の『沙石集』によると、景時の死後、妻は世や人を恨み続けていたが、栄西が自業自得の報いであるのだから菩提を弔って生きるように導いた。 のちに景時の妻は、栄西が開いた建仁寺の塔の建立に尽力したのだという。 |
鶴岡八幡宮の仮の別当をつとめ、頼朝の持仏堂を建てるなど、頼朝の師であった伊豆山権現の専光房良暹(せんこうぼうりょうせん)は、景時の兄という説がある。 |
梶原景時邸跡 (鎌倉) |
梶原景時館址 (寒川町) |
梶原景時の墓 (鎌倉) |
梶原景時の墓 (大田区萬福寺) |
梶原稲荷神社 (品川区) |
萬福寺 (大田区) |
御霊神社 (鎌倉梶原) |
大巧寺 (鎌倉) |
富士河口湖町には、甲斐国梶原氏が継承され、景時末裔が集まる河口湖には景時の像が建てられている。 |
梶原八幡神社は、1191年(建久2年)6月、梶原景時が鶴岡八幡宮の古神体を譲り受けて創建したのだと伝えられている。 |
1200年(正治2年)1月20日、駿河国で在地武士と合戦となった景時は、嫡男景季・次男景高とともに梶原山に退いて自害したのだと伝えられている。 |
矢射タム橋の碑 (瀬名川古戦場) |
梶原父子の墓 (梶原堂) |
曲金観音堂 (狐ヶ崎古戦場) |
馬頭観音 (狐ヶ崎古戦場) |
鎌倉の建長寺では、毎年7月15日、梶原景時のための施餓鬼会が行われている。 |
|