傲慢な梶原景時と礼儀を尽くす畠山重忠 |
|
1189年(文治5年)の奥州征伐での事。 『吾妻鏡』によると・・・ 9月7日、宇佐美実政が捕虜にした藤原泰衡の家来・由利八郎(維平)を連れて、源頼朝が陣を敷く陣岡にやってきた。 ところが、天野則景が生け捕ったのは自分であると主張。 頼朝は、二階堂行政に命じて、双方の馬の毛並みと鎧の威し紐の色を書き出させ、真偽を確かめるため梶原景時に由利八郎を尋問するよう命じる。 景時は立ったままこう質問した。 「お前は泰衡の郎従の中で名のある武将なのだから、真偽を取り繕う必要はない。 正しい事だけを申せばよい。 何色の鎧の者が、お前を生け捕った?」 怒った由利は、 「お前は、頼朝殿の家人か。 今の物言いは、身分をわきまえないもので例えようもない。 故藤原秀衡様は、藤原秀郷の直系子孫。 奥州藤原氏三代は鎮守府将軍を拝命した家系。 お前の主人である頼朝殿も、そのような言葉は発しないはずだ。 また、お前と我は対等の身分であって、どちらが上ということはない。 運悪く捕虜となるのは、勇士にはよくある事。 それを、このような奇怪を表されては、申すことはない」 と反発したのだという。 顔を真っ赤にた景時は、頼朝に、 「あの男は、悪態をついてばかりで、糾明のしようがありません」 と申し上げると頼朝は、 「景時が無礼な態度をとったので、怒っているのだろう。 確かに道理が通っている。 畠山重忠に質問させるように」 と命じた。 由利の前に出た重忠は、持ってきた敷皮に座って、礼を表してから、 「弓馬に携わる者が、敵に捕われることは中国でもこの日本でも常のことで、恥ずかしいことではありません。 永暦年中には、故源義朝様は横死しました。 頼朝様も捕虜となって六波羅へ連行され、伊豆国へ流罪となりました。 それでも、よい運にめぐりあい、天下を取ることになりました。 今、貴殿は捕虜の身ですが、これから先も悲惨な状況にあるということはないでしょう。 貴殿は、奥六郡で武士としての誉れが高く、かねてよりその名を聞いていました。 そのため、二人の者が貴殿を捕えた手柄を主張しあっています。 貴殿の発言で二人の手柄の有無が決まるのですが、何色の鎧を着た者に生け捕られたのか教えて頂きたい」 と質問すると、由利は、 「貴殿は畠山殿ですか。 礼儀を心得ておられ、先ほどの礼儀知らずの男とはちがうので、申し上げましょう。 黒糸威しの鎧を着た鹿毛の馬に乗った者に馬から引きずり落とされました。 その後、追いかけてきた者は多く、見分けがつきませんでした」 と答えたのだという。 「黒糸威しの鎧と鹿毛の馬は、宇佐美実政」 重忠は、そう頼朝に報告している。 その後、由利は重忠に預けられた。 |
|