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源義朝は、河内源氏6代目。 1123年(保安4年)に誕生。 父は源為義。 母は藤原忠清の娘。 河内源氏は、本拠地は河内国古市郡壷井。 初代頼信、二代頼義、三代義家の活躍により「武家の棟梁」と称されるが、義家死後は一族の内紛などによって衰えていた。 |
壺井八幡宮 |
通法寺跡 |
壺井八幡宮は、源頼義が石清水八幡宮を勧請して創建した河内源氏の総氏神。 河内源氏の氏寺だった通法寺跡には、源氏三代(頼信・頼義・義家)の墓がある。 |
そんな時代情勢の中に生まれた義朝は、少年期に東国へ下向。 頼義が前九年の役で得た安房国の丸御厨に住んだ後、上総国へ移って上総氏の庇護を受けていたものと考えられている。 そのため、「上総御曹司」と呼ばれていた。 |
※ | 義朝の東国下向は、父為義から廃嫡されたためという説がある。 |
東国で成人して相模国に本拠を置いた義朝は、1143年(康治2年)から1145年(久安元年)にかけて相馬御厨を、1144年(天養元年)には大庭御厨の支配権に介入。 有力豪族を傘下に収め、勢力を伸ばしていく。 |
義朝は、先祖頼義が平直方から譲り受けた鎌倉の亀ヶ谷に館を構えた。 壽福寺はその旧跡に建てられた寺。 鎌倉と源氏 |
逗子市沼間の法勝寺の辺りには、義朝の沼浜亭があったといわれ、鎮守五霊神社は義朝が勧請したと伝えられている。 |
南関東の武士団を統率する地位を確立した義朝は、東国を長男の義平に任せて中央へ進出。 熱田神宮大宮司藤原季範の娘由良御前を正室に迎え、1147年(久安3年)には嫡男の頼朝が誕生。 |
その後、院近臣を後ろ盾とした義朝は、1153年(仁平3年)に下野守に任じられ、都の武者としての地位を高めていった。 一方、対立関係にあった父の為義は、次男の義賢を北関東に下向させて義朝を牽制するが、1155年(久寿2年)、義朝は鎌倉の義平に命じて義賢の大蔵館を攻めさせて討ち取り、東国での地位を固めた。 |
1156年(保元元年)、皇位継承問題と摂関家の内紛から起こった保元の乱で、義朝は平清盛とともに後白河天皇に味方して勝利。 この乱で摂関家に味方した父の為義は、義朝に斬首されている。 父為義と弟たちを斬った源義朝 |
保元の乱は新たな対立を生み、義朝と清盛の間にも大きな溝が生まれた。 こうして起こったのが、1159年(平治元年)12月の平治の乱。 13歳になった嫡男の頼朝も源家重代の源太産衣(げんたがうぶぎぬ)を着用し、髭切の太刀(ひげきりのたち)を帯びて初陣したが・・・。 12月27日、清盛に敗れ、東国で再起を図るため京を脱出。 翌1160年(平治2年)1月3日、尾張国野間で長田忠致の裏切りに遭って殺害された(享年38)。 |
1159年(平治元年)12月9日、義朝は後白河上皇の三条殿を襲撃。 三条東殿遺址は、平治の乱勃発の地。 |
入浴中に襲撃された源義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と言い残して最期を遂げたのだという。 野間大坊(大御堂寺)の義朝の墓には、木太刀が供えられている。 周囲には、頼朝の助命嘆願をしたという池禅尼・義朝の郎党鎌田政長(政清・政家)とその妻・織田信孝の墓もある。 |
御湯殿跡 |
乱橋 |
法山寺には義朝が殺害されたという湯殿跡が残されている。 法山寺の入り口にある乱橋は、義朝の家来と義朝を殺害した長田忠致の家来が戦った所と伝えられる。 |
血の池 |
長田父子磔の松 |
血の池では、義朝の首が洗われたのだという。 義朝を殺害した長田忠致は、のちに頼朝によって殺された。 |
平治の乱後、長男の義平・次男の朝長は討死。 三男の頼朝は伊豆国流罪、五男の希義は土佐国流罪。 七男の今若(全成)・乙若(義円)は、それぞれ醍醐寺・園城寺に入って出家。 九男の牛若(義経)は鞍馬寺に預けられた。 |
たった八騎で都を落ちた源義朝 常盤御前に源義朝の死を知らせた金王丸 源義朝を暗殺した長田忠致 源義平の最期 源頼朝を匿った草野定康 |
箱根権現(現在の箱根神社)の別当だった行実は、父良尋が為義や義朝と親交があったことから、為義には「東国の家人の召集権」を、義朝には「駿河・伊豆の家人の召集権」を与えられたのだという。 |
源頼朝を助けた箱根権現の行実と永実 |
1079年(承暦3年)、浅草寺が原因不明の火災で炎上した際、御本尊は本堂の西方にあった榎の梢に自ら避難したのだという。 それから約70年後、源義朝は御本尊が避難したという大榎で造った観音像を奉納。 毎年1月に執り行われる「温座秘法陀羅尼会」の本尊とされている「榎観音」がその像と伝えられている。 |
勝長寿院は、源頼朝が義朝の菩提を弔うために建立した寺院。 後白河法皇から送られた義朝と、義朝に仕えた鎌田政長(政清・政家)の首が葬られたのだという。 |
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