源頼朝を助けた箱根権現の行実と永実 |
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『吾妻鏡』によると・・・ 1180年(治承4年)8月23日午前4時頃、源頼朝は、北条時政・北条宗時・北条義時・安達盛長・工藤茂光・土肥実平ら三百騎で相模国の石橋山に布陣。 夕刻になって大庭景親・伊東祐親らの数千騎に攻められ、佐奈田義忠・陶山家康が討死。 翌24日未明には大勢が決し、大敗した頼朝は、土肥の椙山へ逃げ込んだ。 石橋山の戦い後、北条時政・北条宗時・北条義時は別行動をとっていたが、晩になって頼朝の椙山の陣に到着(宗時は早川で討死)。 そこへ、箱根権現の永実(別当行実の弟)が食料を持ってやってきた。 永実に頼朝の所在を尋ねられた時政は、 「頼朝様は、大庭景親の囲みを逃れることができなかった」 と答えるが、永実に、 「貴方は私の短慮を試されているようだ。 頼朝様が亡くなれば貴方は生きていないはず」 と問い返えされ、時政は笑いながら永実を頼朝のもとに案内。 永実が持参した食料を献上すると、飢え切っていた頼朝や兵たちは値千金の価値があると喜んだ。 土肥実平が 「世の中が落ち着いたならば、永実を箱根権現の別当にしてあげてください」 と申し上げると、頼朝はこれを承諾したのだという。 その後、頼朝は永実の案内で箱根へ向かい、箱根権現別当の行実邸は、参詣の民衆が集まるので、永実邸に入った。 |
しとどの窟 (湯河原町) |
箱根神社 (箱根町) |
石橋山で大敗した源頼朝は、しとどの窟に身を潜めたのだという。 箱根神社は、古来「箱根権現」と称され、伊豆に流された頼朝が崇敬した。 |
頼朝のもとへ食料を届けた永実の兄は箱根権現別当の行実。 行実の父良尋は、頼朝の祖父為義や父義朝と親交があった。 京都にいた行実が父の跡を継いで箱根権現の別当に就任する際、為義は「東国の家人の召集権」を、義朝は「駿河、伊豆の家人の召集権」を行実に与えていた。 そのため、行実は、頼朝が伊豆国流罪の間、祈祷をして仕え、 石橋山での敗北を聞いて、弟の永実を頼朝のもとへ行かせたのだという。 |
8月25日、前日に永実の屋敷に落ち着いたばかりの頼朝だったが・・・ 行実と永実の弟の智藏房良暹が頼朝を襲撃しようと企てている事が知らされる。 良暹は、頼朝が伊豆国で討ち取った山木兼隆の祈祷師だったのだとか。 行実は、良暹の力を恐れることはないが、景親が聞きつけて攻め寄せてくると面倒なので、早く逃げるよう進言。 山の案内人を呼んだ頼朝は、土肥実平・永実らとともに箱根道を通って土肥郷へ下った。 そして、8月28日、真鶴から安房へ船出している。 |
源頼朝船出の浜 (真鶴町) |
源頼朝上陸地 (鋸南町) |
真鶴から船出した頼朝が上陸したのは安房国の平北郡猟島。 |
箱根神社の矢立の杉は、坂上田村磨呂が蝦夷討伐の際に矢を献上して武運長久を祈願したのだという古木。 前九年の役に出陣した源頼義もこれに倣って矢を奉納したのだと伝えられている。 源義経も箱根権現を崇敬し、義経が奉納したという太刀「薄緑丸」(うすみどりまる)は、頼朝が帯びた「髭切」(ひげきり)とともに源氏重代の太刀として伝えられる「膝丸」(ひざまる)だという説も。 |
1180年(治承4年)、石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、箱根権現(箱根神社)の別当行実を頼って逃れた。 のちに頼朝は走湯権現(伊豆山神社)・箱根権現の二所と三嶋社を参詣する「二所詣」を始めている。 |
神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80−1 伊豆箱根バス「元箱根」下車 箱根登山バス「元箱根港」下車 徒歩10分 |
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