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安達盛長(あだちもりなが)は、源頼朝が伊豆国の蛭ヶ小島の流人だった頃から頼朝の側近として活躍した武将。 安達氏の祖。 足立遠元の叔父ともいわれるが、出自は定かではない。 通称は藤九郎。 正室は、頼朝の乳母を務めた比企尼の長女・丹後内侍。 |
源頼朝は、三嶋大社に源氏再興を祈願していた。 |
慈光寺は、源頼朝が流人の頃から信仰していた観音霊場。 盛長は、使者として署名入りの梵鐘を鋳造したのだという。 |
1180年(治承4年)、以仁王が全国の源氏に平家打倒の令旨を発すると、源家累代の家人を集めるための使者として駆け回った。 石橋山の戦いに敗れた後は、頼朝のとともに安房国へわたり、上総広常・千葉常胤への使者として奔走。 その後も頼朝の側近として活躍し、上野国の奉行人や三河国の守護を務めている。 1999年(建久10年)1月13日、頼朝が死去。 嫡男の頼家が家督を相続するが、4月12日には頼家の訴訟親裁が停止され、宿老13人による合議制が採用されると、その一人に加わった。 この年の秋に起こった梶原景時の変では、景時追放の弾劾状に署名している。 1200年(正治2年)4月26日死去(享年66)。 |
伊豆修禅寺には、盛長の墓といわれる宝篋印塔がある。 |
厚木市飯山の金剛寺には、盛長の位牌が残されている。 |
鴻巣市糠田の放光寺は、盛長の館跡とされる地にある。 |
伊豆国の蛭ヶ小島の流人頼朝と、北条時政の娘政子の仲を取り持ったのは安達盛長だったのだとか・・・ 『曽我物語』によると・・・ 時政に三人の娘がいることを知った頼朝。 長女は先妻との娘で21歳、二女と三女は今の妻との娘で19歳と17歳。 頼朝は二女に手紙を書き、盛長に預けた。 しかし、盛長は、二女と三女は悪女だという噂があったため、宛名を長女に書き替えて届けさせたのだとか。 その長女の名は北条政子。 二人は手紙のやりとりを重ね、そのうちに密かに会うようになったのだという。 |
安達盛長邸は、「甘縄」にあったと伝えられ、頼朝は、1180年(治承4年)に御所が完成したときに「御行始」として安達邸に入御。 その後も度々安達邸を訪れている。 甘縄神明神社には「安達盛長邸址」の石碑が建てられているが、鎌倉時代の「甘縄」の範囲は、坂ノ下の御霊神社辺りから扇ヶ谷を含めた広範な地だったと考えられるため、安達邸がどのあたりにあったかは定かではない。 |
無量寺ヶ谷(現在の扇ガ谷)には、安達義景(盛長の孫)の屋敷内に建てられた無量寿院があったと考えられ、『吾妻鏡』によると無量寿院では義景の十三回忌が営まれている。 『新編鎌倉志』には、「無量寺ヶ谷は興禅寺の西方の谷で、無量寺という泉涌寺末の寺があった」ことが記され、「『吾妻鏡』の無量寿院は、後に無量寺と呼ばれたか?」と記されている。 また、明王院の建設計画などをはじめとする『吾妻鏡』の記録からすると、安達邸は無量寺ヶ谷にあったと考えることができる。 現在、無量寺跡と考えれれている地には、鎌倉市歴史文化交流館が建てられている。 |
今小路西遺跡は、古代・中世の複合遺跡群。 近年の調査では、大規模な建築遺構群が発見され、鎌倉幕府の有力御家人・安達泰盛の屋敷跡の可能性が考えられている。 |
伝説によると・・・ 盛長の正室・丹後局(丹後内侍)が頼朝の子を身籠ってしまう。 怒った北条政子は畠山重忠に殺すよう命じた。 重忠は家臣の本多次郎近常(親恒)に命じて丹後局を由比ヶ浜に誘い出すが、殺すことはできず、身代わりを立てて逃がした。 そして、丹後局は、摂津国住吉に辿り着き、無数の狐火に導かれて住吉大社に至ったのだという。 社頭で産気づいた丹後局は、傍らの大石を抱きながら男児を出産のだとか。 |
のちに頼朝は、その子に薩摩・大隅二か国を与えた。 それが島津氏の祖・島津忠久なのだとか。 忠久の「忠」は、畠山重忠の一字を与えられたのだとも伝えられている。 頼朝の御落胤伝説は、函南町の高源寺・茅ヶ崎市のえな塚・厚木市の小町神社にも伝えられている。 |
『新編相模国風土記稿』によると、建久年間、相模国愛甲郡三田村(厚木市三田)は、盛長の領地で屋敷もあったのだという。 三田八幡神社は、盛長が鶴岡八幡宮を勧請して再建したという社。 神社の近くには、盛長の墓と伝わる石塔が残されている。 坂東観音札所の飯山観音は、盛長の孫義景によって堂宇が建立されたのがはじまりともいわれている。 |
源範頼は、頼朝の異母弟。 妻は、安達盛長の娘。 埼玉県の中央を流れる荒川沿いの鴻巣市・吉見町・北本市には、盛長や頼朝の乳母・比企尼も関係した範頼の伝説が多く残されている。 |
放光寺は、安達盛長の館跡と伝えられている。 盛長は、伊豆の蛭ヶ小島に流されていた頼朝に仕える前に武蔵国足立郡糠田(現在の鴻巣市糠田)を領していたのだとか。 |
安楽寺は、1159年(平治元年)の平治の乱後、範頼が隠れ住んだと伝えられる寺。 |
息障院は、範頼の館跡とされる地に建てられた寺。 平治の乱後、安楽寺に逃れたという範頼は、比企尼をはじめとする比企一族の庇護を受けていたのだ伝えられている。 |
1193年(建久4年)、範頼は謀反の疑いで伊豆の修禅寺に幽閉され、間もなく梶原景時らに攻められ自害したと伝えられている。 範頼の妻亀御前(盛長の娘)は、その後を追うように荒川付近で自害したのだという。 高尾阿弥陀堂は、亀御前を弔うために建てられたと伝えられる。 |
北本市には、範頼生存伝説も。 石戸宿は範頼が落ち延びた地と伝えら、東光寺の蒲ザクラは範頼の持っていた杖が根付いたものと伝えられている。 石戸も盛長が領していた地なのだとか。 |
範頼が修禅寺に流されると、比企尼は曾孫の範円と源昭の助命を嘆願。 範円は、範頼館に居住し、子孫は吉見氏を称するようになったのだ伝えられている。 修禅寺には、範頼の墓とともに盛長の墓が建てられているが、こういった伝承が関係しているのかもしれない。 |
五代執権北条時頼の母は、安達景盛の娘松下禅尼。 八代執権北条時宗は安達邸で生まれ、妻の堀内殿(東慶寺開山の覚山尼)は安達義景の娘。 |
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