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明王院(真言宗御室派)は、1235年(文暦2年)、四代将軍藤原(九条)頼経による創建。 十二所という地が幕府の政所からみて鬼門の方角にあったため、鬼門除けとして建立され「不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉」の五大明王が祀られた。 それぞれの明王に大きな堂があったことから「五大堂」とも呼ばれる。 鎌倉で五大明王を祀るのは明王院のみ。 2012年(平成24年)、不動明王像は国の重要文化財に指定された(運慶の次男康運の作とする説がある。)。 毎月28日は「お不動様の日」として護摩法要が行われる。 |
鎌倉観音巡礼第8番札所 (十一面観世音) 鎌倉十三仏第1番札所 (不動明王) |
開山 | 鶴岡八幡宮別当定豪 |
開基 | 藤原頼経 |
本尊 | 不動明王 |
明王院は「飯盛山寛喜寺明王院五大堂」と呼ばれ、かつては、将軍祈願寺として壮麗を極めた寺院。 蒙古襲来(元寇)の際には元軍退散の護摩法要が執行されたのだという。 しかし、室町以降の鎌倉の衰退とともに寺も廃れ、江戸時代には火災により焼失。 その後、本堂が再建され、火災による焼失を免れた鎌倉時代の不動明王像と江戸時代に造立された四大明王像を安置している。 |
『吾妻鏡』によると、明王院は1231年(寛喜3年)から建設計画がたてられ、当初は、永福寺または大慈寺境内に建立される計画だった。 同年、永福寺境内に建設されることが決定されるが、すぐに甘縄に変更。 さらに、1232年(寛喜4年)には大倉に変更され、1235年(文暦2年)に開眼供養が行われている。 堂の上棟にあたっては、定豪による一切経の供養が行われたが、一切経の校合には、北条泰時の要請によって浄土真宗開祖の親鸞が関わっていたという説がある。 五大堂明王院の建設計画 |
三代将軍源実朝が暗殺されると実朝の母北条政子は、皇族の将軍を迎えようとしたが、後鳥羽上皇に拒絶され、源頼朝の姉妹坊門姫の曾孫にあたる九条家の頼経が将軍に迎えられた。 頼経は、二代将軍源頼家の娘竹御所(参考:新釈迦堂跡)を妻とし、約30年間を鎌倉で過ごしたが、北条時頼が執権に就任すると鎌倉を追放された(参考:宮騒動 鎌倉「摂家将軍」)。 |
頼経は源頼朝の姉坊門姫の曽孫 四代将軍源頼経〜明王院の庚申塔〜 新釈迦堂跡〜頼経の妻竹御所〜 |
鎌倉幕府四代将軍・・・藤原頼経(okadoのブログ) |
『吾妻鏡』によると、頼経は上洛した際、賀茂祭を見物したらしい。 |
例大祭 |
二ツ橋 (けがなし石) |
初弁天 |
伝大江広元墓 |
大慈寺跡 |
梶原景時邸跡 |
大江広元邸跡 |
大江稲荷 |
大江稲荷の御神体は明王院に置かれている。 |
明王院近くの公園に植えられている御衣黄は、京都の仁和寺発祥といわれる緑の桜(八重桜)。 貴族が着ていた衣の色にちなんで、「御衣黄」と名付けられた。 |
明王院の脇の小径は、天園ハイキングコースに通じている。 瑞泉寺への近道であることはもちろん、様々なコースを選択してハイキングを楽しむことができる。 |
六浦道(路)その1 鎌倉アルプスの散策・・・前編 後編 「お塔の窪やぐら」への道 明王院から瑞泉寺への古道 護摩焚き供養〜明王院の初不動〜 |
鎌倉市十二所32 0467(25)0416 鎌倉駅から金沢八景・大刀洗行バス 「泉水橋」下車徒歩5分 |
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