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永福寺(ようふくじ)は、1192年(建久3年)、源頼朝が奥州平泉の中尊寺、毛越寺、無量光院などを模して建てた寺院。 鶴岡八幡宮・勝長寿院とともに頼朝の三大寺院と呼ばれた。 弟源義経と奥州藤原氏の霊魂を鎮めるために建立したといわれるが、それとともに頼朝自身の権勢を世に知らしめるためだったともいわれている。 本堂は二階堂と呼ばれ、本尊は釈迦如来だったと考えられている。 跡地は国の指定史跡となっていて、本堂の「二階堂」の名は地名として残されている。 |
中尊寺 |
大長寿院 |
源頼朝が、鶴岡八幡宮・勝長寿院に続いて造営したのが永福寺。 1189年(文治5年)の奥州征伐で奥州平泉の寺院を見た頼朝は、1192年(建久3年)正月、新造の御堂の建設を開始。 11月25日に、中尊寺の大長寿院を模した二階堂(本堂)が完成。 供養の導師は園城寺の公顕。 1193年(建久4年)には阿弥陀堂が建立され、翌1194年(建久5年)12月26日には薬師堂が完成し、供養の導師は東大寺の勝賢がつとめた。 『吾妻鏡』によると、二階堂の扉と仏壇の後壁の絵は、円隆寺(毛越寺金堂)を模して描かれたものだったのだという。 |
毛越寺 |
無量光院跡 |
中世三大紀行文の一つ『東関紀行』の作者は、「二階堂はことにすぐれたる寺なり」と記している。 |
『吾妻鏡』が伝える中尊寺 『吾妻鏡』が伝える毛越寺 二階堂はことにすぐれたる寺なり。〜東関紀行〜 |
永福寺は、二階堂を中心に薬師堂、阿弥陀堂、三重塔などを備えた壮大な寺院であったが、1405年(応永12年)に焼失。 その後廃絶したものと考えられるが、その時期は明らかではない。 浄妙寺の末寺として存続していた時期もあったといわれている。 |
鎌倉市歴史文化交流館では、幻の大伽藍を臨場感あふれる3DCG映像で再現したデジタルコンテンツ「VR永福寺」が常設公開されている。 |
発掘調査では、中心に二階大堂、南に阿弥陀堂、北に薬師堂が回廊(複廊)で結ばれ、阿弥陀堂の南と薬師堂の北には苑池へと延びる翼廊を従えていたことが確認され、それぞれの翼廊の先端は釣殿となっていたと考えられている。 |
2012年(平成24年度)の工事で復元された基壇と基壇の礎石に使用された石。 1983年(昭和58年)の発掘調査で発見された礎石は土中にあるため、それと近似した石が使用されている。 |
奥州藤原氏三代目の秀衡が建てた無量光院は、悉く宇治の平等院を模して建てられたのだという。 永福寺建立に際しての源頼朝の全体構想は、無量光院を中心に置いていたのかもしれない。 |
諸堂の前面には苑池が造営され、頼朝もその造営工事を熱心に指示したのだと伝えられている。 『吾妻鏡』によると、池の造営は僧静玄に相談して進められていたが、庭石の配置に気に入らないところがあったは頼朝、静玄にそれを直させている。 |
苑池の造営で大活躍したのが畠山重忠。 『吾妻鏡』によると、苑池に立石を置く際、重忠は約3メートルの巨石を一人で運んで立て置き、見ているものは皆、その怪力に驚いたのだという。 頼朝が静玄に命じて庭石の配置を直させたときに、石を動かしたのは畠山重忠、佐貫広綱、大井実春の三人。 百人力の働きをみせた三人に、頼朝は感心したのだという。 |
源頼朝の永福寺建立と怪力で活躍した畠山重忠 |
2017年(平成29年)、苑池の復元工事が終わり水が満たされた。 平安から鎌倉期にかけて流行った庭園に水を導き入れるための遣水も北翼廊の北側に復元されている。 |
苑池の景観は、宇治平等院の鳳凰堂前の阿字池のようであったと想定されている。 |
2019年(平成31年)4月には、平泉町から「中尊寺ハス」が鎌倉市に寄贈され、苑池の畔で贈呈式が行われた。 中尊寺ハスは、鎌倉歴史文化交流館で育てられ、2020年(令和2年)には一輪咲かせ、2021年(令和3年)からは永福寺跡に置かれている。 |
永福寺では、三代将軍源実朝や四代将軍藤原(九条)頼経が和歌会を催したという。 実朝や頼経は牛車で永福寺に出かけ花見を楽しんだとも伝えられている。 1247年(宝治元年)に起こった宝治合戦では、三浦光村が永福寺に陣を構え、1333年(元弘3年)には、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞が足利尊氏の嫡男義詮を伴って滞在したときもあった。 鎌倉の発展とともに栄えた永福寺だったが、1405年(応永12年)に炎上し、その後衰えたものと考えられている。 |
永福寺建設の様子を見に出かけた源頼朝は、働いている人夫の中に片目を失った男をみた。 捕えさせて調べると、ふところには刀をしのばせ、失明したような左の眼には魚の鱗をはめ込み盲目を装っていた。 上総五郎兵尉忠光と名乗り、頼朝の命を狙っていたことを白状したため処刑された。 忠光は平悪七兵衛景清の兄。 平姓で呼ばれているが、藤原秀郷の子孫。 景清も頼朝の命を狙い、仮粧坂の牢に閉じ込められたという伝説がある(参考:景清窟)。 |
源頼朝暗殺計画(上総五郎兵尉忠光) 頼朝暗殺を企てた平景清の伝説 |
『吾妻鏡』によると、四代将軍藤原(九条)頼経の発願により建立された明王院は、当初永福寺の境内に建設される計画だった。 頼経の正妻竹御所の御願寺も永福寺境内に計画されていたのだという。 その後、甘縄に変更され、さらに大倉に変更されたのだという。 五大堂明王院の建設計画 |
北条時政が奥州征伐の戦勝を祈願して創建したという伊豆の国市の願成就院。 時政・義時・泰時の三代にわたって整備され、その伽藍は、平泉の毛越寺を模した構成だったのだという。 |
永福寺跡の遺物の軒瓦の中には、鶴岡八幡宮や北条時政建立した願成就院のものと同じ型を使って作られたものも含まれ、時政が願成就院を建てた大工や瓦職人を頼朝に斡旋したのだという推測が成り立つのだという。 |
願成就院の阿弥陀如来像・毘沙門天・不動明王・矜羯羅童子・制咤迦童子の諸像は、胎内造像銘札により運慶の真作。 そして、近年では永福寺の造仏も運慶が担当したとする説が有力となってきている。 源実朝誕生時の祈願所となった横須賀の曹源寺の十二神将像は、永福寺の薬師堂にあった十二神将像の模刻と考えられている。 |
横浜市泉区下飯田にある東泉寺の薬師堂は、源頼朝に仕えた飯田家義ゆかりの堂。 家義は永福寺の薬師如来を飯田郷に勧請し、信仰していたのだという。 家義は石橋山の戦いで敗れた頼朝を救った武将として知られている。 |
環境整備前 |
遊歩道 |
通玄橋 |
菜の花 |
永福寺跡から天園への古道(獅子舞)は紅葉の名所 (参考:鎌倉の古道)。 |
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鶴岡八幡宮・勝長寿院・永福寺は、源頼朝建立の三大寺院と呼ばれる。 |
鎌倉市二階堂 鎌倉駅徒歩25分 バス停「大塔宮」から徒歩5分 |
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