|
富士塚城址の碑が建てられている富士塚公園は、飯田家義の館があった場所と伝えられている。 家義は、1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると大庭景親の軍に加わるが、石橋山の戦いで敗れた頼朝を救った武将として知られている。 富士川の戦い後、頼朝が初めて行った論功行賞では、飯田郷(現在の横浜市泉区)を安堵された(参考:歴史めぐり源頼朝)。 頼朝亡き後の1200年(正治2年)に起こった梶原景時の変では、上洛途中の景時を襲撃した人物の一人といわれている(梶原景時・景季の最期)。 近くの東泉寺の薬師堂には、家義の守り本尊と伝えられる薬師如来像が安置されている。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 飯田家義は、石橋山の戦いで源頼朝に味方するつもりだったが、大庭景親の軍隊に道を塞がれ、頼朝に合流することができなかったため、仕方なく景親の軍にいたのだという。 頼朝が戦いに敗れると、椙山に手引きし、その後、頼朝が落とした数珠を持って駆けつけている。 家義が持ってきた数珠は、頼朝が普段から持ち歩いていたもので、狩りなどで相模国の武士達は皆この数珠を見知っていたという。 その数珠を家義が持ってきてくれたので頼朝は大いに喜んだ。 このとき家義は、頼朝の供を願い出るが、土肥実平の説得により泣く泣くその場を退去したのだとか。 |
横浜市泉区下飯田町(富士塚公園) 横浜市営地下鉄「下飯田町駅」下車徒歩5分 |
|