|
「梶原景時の変」は、源頼朝の信任が厚かった梶原景時が、頼朝の死後、御家人66名の弾劾にあって鎌倉を追放され、滅ぼされた事件。 潜在していた御家人間の対立が初めて表面化した事件となった。 石橋山の戦いで敗れて逃亡する源頼朝を助けたという梶原景時。 上総広常の暗殺や、源平合戦での源義経との対立などの伝説も残された武将。 武家政権を樹立させたい頼朝にとって、景時はなくてはならない存在であった一方、讒言によって多くの御家人が失脚していることから、御家人の間では恨まれていたところもあったらしい。 |
梶原の御霊神社は、梶原景時の創建と伝えられている。 |
『吾妻鏡』によると、1199年(正治元年)10月25日、将軍御所の侍所では、 結城朝光が夢のお告げを受けたとして、正月に亡くなった源頼朝のために「一万遍の念仏」を唱えることを皆に勧め、「南無阿弥陀仏」を唱和。 そのとき朝光が 「忠臣は二君に仕えずと申すが・・・頼朝公が亡くなられたときに出家をとどめられたことを大変後悔している・・・」 と語ると、頼朝の近くに仕えていた朝光の言葉に皆が涙を流したのだという。 |
※ | 結城朝光は、小山政光と源頼朝の乳母を務めた寒河尼との間の子。 |
それから2日後の10月27日、阿波局から「梶原景時の讒言で、あなたは殺されてしまうかもしれません」と告げられた結城朝光。 その理由は、 朝光が「一万遍の念仏」を唱えた日に「忠臣は二君に仕えず」と述べたことが現将軍(源頼家)に敵対していると捉えられたから。 驚いた朝光は、親交のあった三浦義村に相談。 朝光は義村に「頼朝公より受けた御恩を思うと須弥山の頂より高いもので、むかしを慕うあまりに「忠臣は二君に仕えず」と言った」と釈明。 義村は「事は重大なので、宿老たちに相談すべきだ」として、使いを差し向けたところ、さっそく和田義盛や安達盛長などが集まり、味方の署名を募って景時を訴えることとなる。 訴状は、文章がうまいという評判の中原仲業が担当。 仲業はかねてより景時に遺恨を抱いていたのだという。 |
※ | 阿波局は、北条時政の娘で北条政子の妹、源頼朝の弟阿野阿野全成の妻、千幡(源実朝)の乳母。 |
10月28日、千葉常胤・三浦義澄・千葉胤正・三浦義村・畠山重忠・小山朝政・結城朝光・足立遠元・和田義盛・和田常盛・比企能員・伊賀朝光・二階堂行光・葛西清重・八田知重・波多野忠綱・大井実久・若狭忠季・渋谷高重・山内経俊・宇都宮頼綱・榛谷重朝・安達盛長・佐々木盛綱・稲毛重成・安達景盛・岡崎義実・土屋義清・東重胤・土肥維平・河野通信・曽我祐綱・二宮友平・長江明義・毛呂季綱・天野遠景・工藤行光・中原仲業らが鶴岡八幡宮の回廊に終結。 そこへ、中原仲業が訴状を持ってきて読み上げた。 そして、その訴状に66人の御家人が署名・血判。 作成された連判状は、将軍頼家に提出するため、和田義盛と三浦義村が大江広元に託している。 |
※ | 連判状の文中には「鶏を養(か)う者は狸を畜(やしな)わず、獣を牧(か)う者は豺(やまいぬ)を育(やしな)わず」とあったのだとか・・・。 三浦義村はこの文に感心したのだという。 |
※ | 結城朝光の兄長沼宗政は署名はしたが、血判を押さなかった。その理由は不明。 |
※ | 阿波局の発言から始まった事件だが、連判状には、北条時政、義時父子の名は連ねられていない。 |
連判状を受け取った大江広元は、梶原景時が讒言によって人を陥れることにつては気になっていたが、源頼朝に親しく仕えていた景時を直ちに処罰することは好ましいことではないと考え、平和的に解決する方法を思案していた。 しかし、11月10日、和田義盛に「連判状を将軍(頼家)に見せたかどうか」を尋ねられ、「まだ・・・」と答えると義盛が怒って、「景時が恐ろしいのか」と詰め寄ってきたたため、広元は頼家に伝えることを約束して席を立ったのだという。 |
〜梶原景時に侍所別当の職を奪われていた和田義盛〜 |
1180年(治承4年)に侍所別当に任じられていた和田義盛。 1192年(建久3年)、梶原景時に「一日だけその名を貸してくれ」と頼まれ、喪に服さなけれならない理由のあった義盛は、それを許したが、そのまま別当職を景時に奪われてしまったのだとか・・・ ただ、御家人間の話で幕府の重職を決められるはずがなく、景時が別当となったのは、頼朝の意向だったと考えるのが妥当なのかもしれない。 |
11月12日、大江広元は連判状を将軍頼家に提出。 頼家は、連判状を梶原景時に渡して弁解するよう伝えるが、景時は何の弁解もせず、翌日、子息・親類を率いて相模国一の宮に引き下がった(参考:梶原景時館址)。 ただ、景時の子景茂は鎌倉に残っていて、11月18日に比企邸で開かれた宴会に出席。 景時に対する訴状を作成した中原仲業も同席していた。 その席で頼家が訴状について触れると、景茂は、 「頼朝の寵愛を受けた父が悪だくみなどするわけがない」 と答えたのだという。 12月9日、景時は一度鎌倉にもどるが、12月18日、評定の結果が出て、景時は鎌倉から追放されることとなり、景時の屋敷は解体されて永福寺の僧侶の住居として寄附されている。 そして、翌1200年(正治2年)正月20日、景時は上洛するため一宮を発つが、駿河国清見関付近で在地武士と合戦となり、景時は嫡子景季とともに討死し、梶原一族は滅亡した。 源頼朝の死からちょうど一年後の事だった。 『吾妻鏡』には、景時の上洛の理由を武田有義を将軍にするためと書かれているが定かではない。 参考までに、駿河国は、北条時政が守護を務めていた地。 梶原景時・景季の最期 |
梶原景時の墓 (鎌倉) |
梶原景時館址 (寒川町) |
源太塚 (鎌倉:仏行寺) |
しのぶ塚 (鎌倉山) |
仏行寺の源太塚は、梶原景時の嫡子景季の片腕が葬られたいう塚。 しのぶ塚は景季の妻のもの。 二人の塚は向き合って建てられているのだとか・・・ |
梶原塚は、梶原景時に命を救われた諏訪大社下社の大祝諏訪盛澄(金刺盛澄)が景時の恩に報いるため建てたもの。 流鏑馬と諏訪盛澄の逸話 (梶原景時に命を救われた諏訪盛澄) |
〜梶原景時は結城朝光を憎んでいたのか・・・?〜 |
1195年(建久6年)、源頼朝が東大寺の大仏殿の落慶供養に参列した際の事。 僧侶と警固の武士との間で紛争が起こった。 梶原景時がそれを鎮めようとするが、その態度が傲慢無礼だとして一触即発の事態となってしまう。 頼朝は結城朝光に命じて事態を収拾させた。 景時は面目を潰され、朝光を憎んでいたという説もあるらしい。 東大寺の僧兵に称賛された結城朝光 |
〜連判状に北条時政・義時の名がなかったのは・・・?〜 |
『吾妻鏡』の記述では・・・ 連判状には、北条時政・義時父子の名が連ねられていない。 それは何故か? 九条兼実の日記『玉葉』には、梶原景時は「将軍頼家の弟千幡(のちの実朝)を担ぎ出し、頼家を討とうとする企みがあることを讒言した」という事が書かれているらしい。 つまり、景時が讒言で陥れようとしたのは、結城朝光ではなく北条時政だったということ。 |
〜反乱を起こした越後国の城氏〜 |
景時が討たれた1年後の1201年(正治3年)1月、京都で城長茂が源頼家追討の宣旨を求めて反乱を起こして誅殺された。 長茂は、景時の庇護を受けていた越後国の武将。 4月には長茂の反乱に呼応して越後国で甥の城資盛と妹の板額御前が反乱を起こして鎮圧されている(建仁の乱)。 |
梶原景時は、将軍頼家の乳母夫を務めており、頼家にとって景時の失脚は大きな損失だった。 1203年(建仁3年)5月には、頼朝の弟全成が謀反を企てたとして捕らえられ誅殺された(阿野全成の誅殺)。 この謀反の企ての影には北条時政がいた。 同年9月、こちらも頼家の乳母夫であった比企能員が北条時政に暗殺され、一族は北条義時らによって討たれた(比企氏の乱 比企能員の暗殺・比企氏滅亡)。 頼家は修禅寺に幽閉され、翌年暗殺されている。 |
九条兼実の弟慈円は、『愚管抄』に「頼家は、乳母夫を務め、一の郎等であった梶原景時を見殺しにしなければ、このようなことにはならなかった」と記している。 |
源氏の繁栄・衰退・再興・滅亡(okadoのブログ) |
建長寺で、毎年7月15日に行われる「三門梶原施餓鬼会」は、梶原景時の霊が蘭渓道隆と会ったことがきっかけで行われるようになったといわれている。 |
|