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阿波局(あわのつぼね)は、鎌倉幕府の初代執権北条時政の娘。 北条政子・北条宗時・北条義時の同母妹と考えられている。 本名は不明。 源頼朝の異母弟阿野全成の妻となり、1192年(建久3年)に政子が千幡(のちの三代将軍源実朝)を出産すると乳付役を務めた。 1227年(嘉禄3年)11月4日死去。 |
※ | 三代執権北条泰時の母も阿波局と呼ばれていたというが、その女性とは別人とされる。 |
※ | 阿野全成と結婚した時期は不明。 |
北条政子と北条義時の母は伊東祐親の娘? |
「結城朝光に謀反の疑いあり」と讒言したことがきっかけとなって鎌倉を追放された梶原景時が、1200年(正治2年)正月20日、駿河清見関で在地武士に討たれて最期を遂げた(梶原景時の変)。 『吾妻鏡』によると・・・ 景時追放で重要な役割をしたのが阿波局。 阿波局は、結城朝光に「梶原景時の讒言で、あなたは殺されてしまうかもしれません」と告げた。 驚いた朝光は、親交のあった三浦義村に相談。 義村が宿老たちに使いを送ると、和田義盛・安達盛長らが集まり、景時を訴えることに。 後日、千葉常胤・三浦義澄・畠山重忠・小山朝政・足立遠元・比企能員・葛西清重・八田知重・岡崎義実ら66人の御家人が鶴岡八幡宮の回廊に集まり、景時を訴える弾劾状に署名・血判したのだという。 阿波局の父時政と弟義時は、景時の弾劾に加わっていないようだが、裏で糸を引いていたのは、時政であったと推測することは可能。 実朝を将軍にするために、まずは将軍頼家の乳母夫景時が狙われたと考えてもおかしなことではない。 |
1203年(建仁3年)5月19日、夫の全成が謀反の罪で捕らえられ、常陸国に流された後、6月23日に殺害された(阿野全成の誅殺)。 将軍頼家は、阿波局の引き渡しも求めたそうだが、政子が渡さなかったのだという。 |
栃木県益子町の大六天の森にある五輪塔は、全成と従者のものと伝えられている。 |
1203年(建仁3年)7月、将軍頼家が病気となって重体となると、北条時政と比企能員の権力争いが激化。 9月2日、時政は能員を自邸に呼び出して暗殺。 政子は、義時らに命じて比企邸を攻めさせて比企一族を滅ぼした(比企能員の変)。 9月7日、頼家は出家、9月15日には、実朝を征夷大将軍とする宣旨が鎌倉に到着している。 将軍となった実朝は、時政の屋敷に置かれていたが、阿波局は政子に「時政の後妻牧の方の不審な動静」を訴え、実朝が成人するまで政子のもとで育てることにしたのだとか・・・ |
比企能員の変後、出家させられた頼家は、修禅寺に幽閉され、翌年7月18日に暗殺されている。 |
比企能員の変から2年後の1205年(元久2年)閏7月、牧の方が将軍実朝を亡きものにして、娘婿の平賀朝雅を将軍に据えようという企てが発覚(牧の方の陰謀)。 時政と牧の方は伊豆国へ追放され、平賀朝雅は誅殺されている。 |
伊豆国へ追放となった時政は、1215年(建保3年)1月6日に死去。 墓所は願成就院。 |
阿野全成の嫡男・時元は、阿波局が産んだ子とされるが、生誕年は不明。 1203年(建仁3年)6月23日、阿野全成が誅殺され後、北条時政や北条政子の計らいもあって阿野荘で隠棲していたのだというが・・・ 1219年(建保7年)1月27日に源実朝が暗殺されると、反北条の兵を挙げ、2月22日、北条義時が派遣した軍に攻められ自刃した。 このとき阿波局がどうしていたのかは不明。 |
大泉寺は、阿野全成の館跡にある寺院。 |
『吾妻鏡』によると、1227年(嘉禄3年)11月4日、御所の女房の阿波局が死去。 北条泰時は30日間の喪に服したのだという。 この阿波局とは、北条政子や北条義時の妹で、阿野全成の妻だった阿波局と考えられるが・・・ 『吾妻鏡』は、泰時の大叔母と記載している(叔母のはず)。 参考までに・・・ 泰時の母は阿波局というのが通説。 この阿波局は、政子や義時の妹の阿波局とは別人とされている。 源頼朝の最初の妻で、泰時の母かもしれないといわれる八重姫は大叔母。 八重姫が阿波局と呼ばれていた可能性も。 |
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